第四十六話 レーブライン侯爵
エルンストが帝都に送った『薔薇の乙女』の一報は、大きく世間を騒がした。これまでのブリュンヒルデの悪行が尾を引いて民はあまり信じられずにいた。
一方、貴族社会は半信半疑と言ったところだった。それは、若い貴族の間で彼女が考案したパンに野菜や果物を入れる軽食や、じゃがいもを油で揚げる温菜、不思議な飲み物、はたまたペラグラ症治療に対する助言など、ブリュンヒルデの密かな功績はあらゆるサロンや会合で広まっていき、『変わりつつあるのでは』という見解が大半を占めたからだ。
しかし、その情報網から漏れている貴族たちやブリュンヒルデの行動自体に腹を立てている人間は懐疑的だった。それは正義を愛する大臣、レーブライン侯爵である。
初老に差し掛かりながらも、常に鍛えた肉体はがっちりとしており、髪も髭も少しだけ白髪が混じる程度で若々しくあった。威厳に満ちた顔は恐ろしく見えるが、婦人や子供たちに見せる表情はとても穏やかで優しい。
強きをくじいて弱きを助け続ける彼は様々な層から敬愛されていた。なにより彼は真面目で実直だった。自分の名誉のためではなく、心底人々を思って日々骨身を砕く彼は、ブリュンヒルデの存在自体が気に食わない。
身分を傘に下級貴族を虐め倒し、ところかまわずヒステリーを起す彼女はレーブラインにとって悪人だった。
「私は今までいろんな悪人と出会ってきた。一番恐ろしいのが、善人の皮を被った悪人だ。皆はホルンベルガー嬢が改心したというが、私はにわかに信じられない」
レーブレイン侯爵はそう言いながら、ミレッカーの釈放に向けて迅速に動いた。レーブラインにとってミレッカーは悪役令嬢に濡れ衣を着せられた被害者である。
さらに、ミレッカーが認めていないにも関わらず、取調官が『お可哀そうな話です。ミレッカー卿は頑なにホルンベルガー嬢の罪を秘匿します。もしや、大事な人を人質に取られているのでは……』と善意の名の下にブリュンヒルデに不利な方へバイアスがかかった調書を提出されたものだから、レーブラインのブリュンヒルデ嫌いはますます悪化していた。
『おそらく今回の騒動も何かしら裏があるのだろう。だが、魔獣の存在を示す証拠が出たのは喜ばしい。これがあるからこそ、ミレッカー卿を助けることができる』
レーブライン侯爵は苦々しい思いをしながらも、釈放のための書類にサインした。
ちなみにホルンベルガー公爵家は静観の構えだった。使用人や公爵は自慢のブリュンヒルデが薔薇の乙女になったことに大喜びしたが、公爵夫人はそれを諫めた。
「嬉しいのは分かりますが、落ち着いてくださいな。あの子は賢い娘です。そして自分が何をすべきか、きちんと考えられる視野の広さも持っている。わたくしたちはあの子を信じて待っていましょう」
マルガレーテはブリュンヒルデが披露した叡智……ペラグラ症や補給食、エナジードリンク。さらにはサンドイッチやコーラのことまで持ち出して、ブリュンヒルデがいかに優れた娘かを皆に思い出させた。
公爵や使用人はマルガレーテの言葉に同意し、いつもと変わらぬ日々を送ることにした。
だが、デンベラの街から飛んできた軍鳩が事態を一変させた。
平民の娘クララとその少女を守る騎士に刻印が出たと知らされた帝都の人々は、伝承の再来だと沸き立った。
「やっぱり、ホルンベルガー嬢は偽物だったんだよ。だって、薔薇の乙女には薔薇の騎士がいるはずだもの」
街の子供たちですらクララが本物だと信じ始めた。
絵本や演劇の薔薇の乙女は薔薇の騎士と共に戦って人々を救っている。『薔薇の乙女』と自称するブリュンヒルデと『薔薇の騎士』に守られた『薔薇の乙女』のクララ、人々がクララを本物と思うのも無理はないことだった。
皇帝は御前会議を開いて重臣たちの意見を尋ねた。ホルンベルガーに恩があるもの、友誼があるものは静観を提言し、そうでないものはブリュンヒルデを罰するよう強く求めた。
その先鋒に立ったのはレーブライン侯爵だった。
彼をそこまで駆り立てたのは、『平民の娘クララ』の存在である。
かつて、傲慢な令嬢に平民の娘が虐げられた事件を扱ったことがあったため、この事件の裏には悲しい事情があるのではないかと懸念したのだ。
「陛下もご存じでしょう? 薔薇の乙女には薔薇の騎士が付き従っています。それはこの国の誰もが知る伝承です。それこそがクララ嬢が本物である証拠、つまり、ホルンベルガー嬢は国を騙したのです」
レーブラインは鷹のような目でホルンベルガー寄りの大臣を睨みつけながら言った。
「し、しかし。魔獣の気配を察知したのはホルンベルガー嬢です。そのおかげでケルシャは助かりました」
一人の大臣があわててブリュンヒルデを擁護するとレーブライン侯爵は射抜くような鋭い目で睨む。
「ふむ。クララという少女はホルンベルガー嬢に一度誘拐されていたのはご存じか? 何らかの伝手でクララの存在を知った彼女が、誘拐して刻印と同じものを自分につけていたのなら辻褄が合います」
そこまで言い切ると、レーブライン侯爵は皇帝に体を向けた。
「陛下、どうかホルンベルガー嬢を偽証の罪で裁くことをお許しください。」
力強い目だった。純粋さと正義感に燃えた瞳に皇帝は否とは言えなかった。
「レーブライン侯爵。そなたの希望は分かった。だが、ホルンベルガー嬢はあくまで容疑者にしか過ぎない。まだ罪人ではないのだ。それは理解してくれるな?」
「ええ、それは重々承知しております」
底冷えするような声でレーブライン侯爵は言った。彼の中でブリュンヒルデは黒だった。断じて薔薇の乙女ではないと彼のカンが訴えていた。
「……それならば、わかった。くれぐれも丁重にな」
「どなたでも公平に扱うことを信条にしております。ご心配なきよう」
つまりは、罪があれば容赦なく断罪するという決意に他ならない。
皇帝はブリュンヒルデに同情的な皇后を思うと、やるせなさで胸がいっぱいになった。




