第四十四話 鷹
ジクセン平野から数キロ離れた街、デンベラ。ここにゲンドルの民が大勢避難していた。教会、学校、図書館……多くの公共施設がその受け皿となった。具合の悪い人間は病院に搬送され、重度の人間は病室で看護された。
その中にクララがいた。熱はないものの、意識がもうろうとしていたためだった。付き添いとしてヘルモルトが傍につき、武骨な手でタオルを変え、汗をぬぐった。熱に苦しむ妹を思い出しながら、ヘルモルトはクララの回復を願い、そっと頭を撫でた。
そのとき、よじれた髪の隙間からひっかき傷が見えた。おかしなところに傷があるなと思いながら、ヘルモルトはよく見ようと髪をのけた。すると汗ばむ額に薔薇の模様が浮かんでいた。擦り傷だと思ったのは薔薇を象る痣の軌跡だったのだ。
ヘルモルトはブリュンヒルデの言葉を思い出し、すぐに看護師を呼んで見回りをしている騎士団に託を頼んだ。
「クララという少女に薔薇の文様が浮き上がっていると役場に行ってホルンベルガー公爵令嬢、それが無理ならそれに近い方々に伝えて欲しい。一見すると切り傷のように見えるのだが、凹凸はない」
「色は薄い赤色ですか?」
「そうだが……どこかで見たことが?」
看護師はじっとヘルモルトを見つめた。
「騎士様の額に似たような文様がありますわ。それもお伝えした方がいいですね」
ベテランの看護師は慌てることも大騒ぎすることもなく淡々と言った。パニックこそ最大の危機という恩師の教えの下、彼女は問診さながらに狼狽えるヘルモルトを宥め、必要と思われる情報を聞き出した。
「ご気分が悪くなったらすぐに呼んで下さいね」
気遣いを残し、看護師は聞き出した情報をもって病院の外に出た。街は急な避難民の受け入れに少々騒がしくなっていたが、凛々しい騎士団が常に見回り、混乱を起こさないように努めているので安心だった。
(公爵令嬢に言伝をするならば、役場に行くよりも騎士様に話した方がいいかもしれないわ)
看護師……ビアンカは通りかかった騎士を呼び止めた。
手入れされた甲冑、すらりと伸びた美しい背筋、所作はどこまでも優雅でビアンカは自分が貴婦人になったような気さえした。
「ご婦人、どうかなさいましたか?」
「あ、あの。当院で看護している患者様に付き添いの騎士様がいるのですが、その方からホルンベルガー公爵令嬢に言伝を頼まれました」
「わかりました。お預かりいたします。私は近衛騎士団12分隊、ニルス・ウンガーと申します。ご婦人のお名前をお聞きしても構いませんか?」
「あ、はい。ビアンカと申します。 言伝はホルンベルガー公爵令嬢の護衛騎士、ヘルモルト様からのものです」
ビアンカがそう言って書付を手渡した。ニルスは丁寧に礼をして少し早足で雑踏を駆けて行った。ビアンカはその後姿をぼうっと見ていたが、すぐに我に返って病院に戻った。ヘルモルトに近衛騎士ニルスに言伝を頼んだと報告した後、彼女は通常の業務に戻った。
一方、ニルスは詰所に行って上長に事の次第を話し、ホルンベルガー嬢へ書付を届ける許可を求めた。
「もちろんそれは構わんが、ベネシュ卿が無事、ホルンベルガー嬢を救出したそうだ。ジクセン平野で野営をしているらしいから、伝書バトの方が早くつくだろう。わたしから手配しておこう」
「ありがとうございます」
ニルスは任務が終わったとそれで安心した。分隊長はいつものように鳩舎の管理官に伝令内容を伝えた。彼は軍鳩に書簡を持たせて大空に放った。せいぜい数キロ程度の事、予備の鳩を離すこともない。彼はそう思った。
「おや、何か急用ですか?」
定期連絡を送るために鳩舎に訪れた秘書官が管理官が鳩を放ったのを見て尋ねた。
「ええ、なんでもとある少女に薔薇の模様が浮き出たとかで、ベネシュ卿にお知らせするところですよ」
事の重大さをよくわかっていない管理官が呑気に言うと、秘書官は奇声を上げて管理官の肩を掴んだ。
「なんですとっ!! それは本当ですか!!!」
秘書官はエルンストと共に皇宮図書館で薔薇の乙女の調査に当たっていた。そのため、薔薇の乙女の体に紋が浮き上がることを知っていた。
管理官は秘書官の変貌に目を丸くしていたが、秘書官は勝手に自己完結した。
「おお、おお!! なんという僥倖!! これでこの国は救われます!! 急いで帝都に報告しなければ!!! ああそれよりも不安がる人たちを安心させるために薔薇の乙女が現れたことを発表しなければ!!!」
秘書官は管理官の体をパッと話すと足取りも軽く、喜び勇んでもと来た道を戻っていった。
まるで嵐のような秘書官の行動に管理官は目をパチパチ瞬き、しばらく呆然としていた。
デンベラとゲンドルの間にあるジクセン平野、距離にしてたった数キロ。穏やかな傾斜がどこまでも続く広い場所ではあるのだが、街道から少し外れるとぽつんと高い山がそびえたっていた。
樹木の合間から鷹の金目がぎょろりと動き、雨上がりの空を横切る小さな姿を捕えていた。