第四十一話 問答
一生の不覚だった。
想定外の出来事でブリュンヒルデは思わず声を上げてしまったのだ。
「うそおおおおおお!!!!!!!!」
と貴婦人にあるまじき絶叫をエルンストは一大事だとすぐに駆けつけてきた。貴婦人の居室にも関わらず、いきなり突入したのは紳士にあるまじき行為だが、それだけエルンストはブリュンヒルデが心配だった。優秀な頭脳が礼儀を忘れてしまうくらい、ブリュンヒルデの安否が気にかかったのだ。
「ホルンベルガー嬢! ご無事ですか!?」
血相を変えて入って来たエルンストは袖を肩までめくりあげてポーズをとるブリュンヒルデを目が合った。そしてその肩の印を目にした。
エルンストの強張った表情はみるみるうちに柔らかく溶け、女神の信徒のごとく、敬意に溢れた眼差しになった。
「……やはり、私の見立ては間違っていませんでしたね」
エルンストは尊敬と思慕が織りなす甘い甘い笑みを浮かべてゆっくりとブリュンヒルデに近づいた。
ブリュンヒルデは硬直したまま動けなかった。処理しなければならないタスクが多すぎた。なぜ自分に刻印が出たのか、そしてエルンストにどう誤魔化すか、ブリュンヒルデはぐるぐるぐると思考があちらこちらに飛んだ。
「すぐに大々的に発表いたしましょう。帝都で飛び回る不快な噂も吹き飛ばせますからね」
エルンストはブリュンヒルデの言葉を待たず、豪華絢爛のパレードの実行に向けて頭脳を働かせていた。エルンストにとってブリュンヒルデにまつわる悪評は耐え難い屈辱で、人をうわさでしか判断できない有象無象にいつかブリュンヒルデがいかに素晴らしい女性か見せつけてやろうと考えていた。
恋は盲目と言うが、美しいだけでなく、世間の心無い噂に耐え忍び、謙虚で知的なブリュンヒルデにエルンストは深く入れ込んでしまったのだ。
「あ、あの……ベネシュ卿。きっと何かの間違いですわ。わたくしは薔薇の乙女などではありませんわ」
ブリュンヒルデは暴走しかけのエルンストを宥めるように、必死で訴えた。
しかし、証拠がある以上エルンストは一歩も引かない。駄々をこねる子猫をあやすように優しくて甘い笑顔を見せながらも、自分の信念を曲げない。
「戸惑うのも無理はありませんが、刻印は紛れもなくあなたが薔薇の乙女だと示しています。もちろん、薔薇の乙女だからといって危険なことをさせるつもりはありません」
「え?」
ブリュンヒルデが聞き返すとエルンストはブリュンヒルデの手を取った。
「薔薇の乙女が覚醒したとき、彼女と志を同じくする者にも薔薇の刻印が浮かび上がり、魔獣を打ち倒す力が宿ります。それが薔薇の騎士、薔薇の乙女を守護するものです」
美しいシトリンの眼差しがブリュンヒルデを見つめる。はちみつ色の髪、透き通るような白い肌。中性的な容姿ありながらブリュンヒルデの手を覆う手のひらは男性らしい鍛えた厚さがあった。
「ホルンベルガー嬢、私は必ずや薔薇の騎士として覚醒し、あなたを守り抜きます」
ぎゅっと握られた手はエルンストの決意が込められていた。ブリュンヒルデはどうしていいかわからなくなった。エルンストの言葉を否定する材料が何もなかった。
困り果てたブリュンヒルデが眉を下げるのを見たエルンストは慌てて手を離した。
「ぶしつけで申し訳ありません。ですが、あなたにどうしても私の気持ちを知って頂きたかった」
「……ご厚意は感謝いたします」
ブリュンヒルデが言えたのはそれだけだった。頭はまだパニック中で、なにをどう整理していいのかすらわからなかった。
(このままじゃ偽薔薇の乙女として担ぎ出されちゃうじゃん!!! ゲームでもブリュンヒルデは薔薇の乙女じゃないって結論出てたし!! 行き着く先は破滅しかないわ!!!)
自分を守ると言い張るエルンストに破滅への道へ追いやられているのが現状だった。エルンストが全て知ったうえで自分を罠に嵌めている可能性も考えたが、この一大事にそんな悠長なことをしている余裕などないはずだ。それに、刻印のこともある。
考えることがいっぱいで疲れ切ったブリュンヒルデはついつい俯く。エルンストは自分の我を通し過ぎたことでブリュンヒルデに負担をかけてしまったと、少しばかり反省した。悪さをした仔犬のようにしょんぼりとした顔でブリュンヒルデの顔色を伺う。
こちらが何か悪いことをしたかのような気になり、ブリュンヒルデは気まずいままエルンストを見た。
「たくさんのことがありすぎて混乱しています。しばらく考えさせていただけませんか」
ブリュンヒルデの言葉にエルンストは頷いた。
「……こちらこそ、自分の都合ばかり押し付けて申し訳ありません」
眉を下げて悲しそうにエルンストは言う。
「ベネシュ卿のお立場も理解できますから、そうお嘆きなさらないで下さいませ」
ブリュンヒルデは微笑む。本人は愛想笑いの範疇でしかなかったのだが、エルンストはその微笑になんだか泣きそうになった。
本来、エルンストは計算高く、配慮という優しさが欠けている男だ。それは自分でも認めているし、エミリオやルドルフ、ヴォルフラムの実直さを羨ましいと思うくらい、自分の性格の悪さを自覚していた。だが、それを悲観したことは一度もない。それは友人たちに持ちえない残酷さが、彼らを守る武器であり盾となるとエルンストは考えていたからだ。
しかし、今、エルンストはその生き方をはじめて後悔した。
自分の配慮のなさがブリュンヒルデを傷つけてしまったことが心に重くのしかかり、胸が痛んだ。
(辛い顔をさせたくないのに、どうして俺は彼女を困らせてばかりなんだろう)
守ると言えば彼女が喜んでくれると何の疑問も持たずに思っていた。エルンストが微笑めばどんな女性も笑ってくれた。おためごかしではなく、本心の敬愛を捧げればブリュンヒルデはそれはもう素晴らしい微笑を投げかけてくれると自惚れていたのだ。
「……ホルンベルガー嬢、お寛ぎのところお邪魔をして申し訳ありませんでした。夕食の時刻までごゆるりとお休みください」
落ち込みを取り繕うこともできず、エルンストはしょげた顔のままブリュンヒルデに言った。
「ありがとう。ベネシュ卿。ご心配、ありがとうございました」
ブリュンヒルデの優し気な微笑に見送られ、エルンストはようやく明るさを取り戻した。