第四話 腐女子の悩みごと
陶器のように美しい指がペン軸を折れんばかりに握りしめる。しかし、紙のゴワつきが勢いを消し、ペン先が跳ねて青いインクが顔に飛んでしまう。
「くっ……我が日本の製紙技術と文房具のクオリティが恋しい……。ハァ。エミヴォル妄想とついでに乙女ゲームの知識をまとめようと思ったのに羽ペン書きにくいしペン先削らなきゃいけないしインクをちょこちょこつけないといけない上に紙もゴワついているからいやになっちゃう」
ブリュンヒルデはがっくりと項垂れた。
ここに電子端末があれば軽やかなキータッチで思いのたけをブチ込めただろう。だが、紙もペンも前時代的なものしかない。
「ハァ。この状態でオタ活なんて無理があるわ。……どうしたものかしら」
ブリュンヒルデは頬に手を当てて考え込む。
記憶の迷路をゆっくりと彷徨い、ブリュンヒルデはあることを思いついた。
「そういえば、ウチはかなりのお金持ちだったわね」
ホルンベルガー公爵家はクレーデル王国屈指の大富豪でもあった。
金銀の鉱山を複数持ち、さらに貿易港を三つと穀倉地帯を有しているため、使っても使いきれないほどの資産がある。
「工房に頼んで私好みのものを作ってもらえるかも。ゲームだと公爵夫妻とすごく仲が悪いけど、朝話した時は普通に仲良かったからお願いしてみよう」
ブリュンヒルデはさっそく父親の執務室に行き、特注の紙とペンが欲しいとねだりに行った。
公爵は娘のおねだりに目を丸くした。ブリュンヒルデの我が儘は今まで何度もあったが、こんな控えめな願いは初めてだった。
「紙とペンくらいいくらでも用立てるが、それだけでいいのかね?」
「はい。特別に作ってもらう形になるのですけれど、紙とペンさえあれば私は幸せです」
遠慮がちに言うブリュンヒルデにディートリッヒは目頭を指で押さえた。
(あんなに傲慢で過激で暴力的だった子がここまで優しくなるとは、ずいぶんと成長したなあ)
感動した公爵はブリュンヒルデの話をろくすっぽ聞かずに快諾した上、引き出しから家門が刻まれた指輪を渡した。
「ブリュンヒルデ。今のお前にならこれを渡しても構わんだろう。これがあれば我が屋の傘下にある工房、商会、工場から農園まで出入り自由だ。特別なペンと紙が必要なら、私を通すよりもお前が自ら指示した方がいいだろう。好きに使いなさい」
指輪を渡されたブリュンヒルデは硬直した。
(ええええ!? そんな権限あっさり渡しちゃっていいの!? というか権限が大きすぎて怖いんだけど!?)
ブリュンヒルデは戸惑いながらも、指輪を跳ね返す気にはなれなかった。
(こ、これがあれば注文付け放題でペンと紙が手に入る……怖いけど使うしかない!! すべてはエミヴォルのため!!)
ブリュンヒルデは指輪をありがたく貰い、ご機嫌な公爵のいる部屋を後にした。
自室に戻った彼女はさっそく目的のための計画を練った。
「えーっと、紙は確か木を溶かして作ってるんだったわよね。たしかアントワーヌって人が、スズメバチの巣が木から作られているのを発見したのがきっかけだったわ」
ブリュンヒルデははるか昔に呼んだ文献を思い出す。基本、彼女の頭は腐れ妄想しか入っていないが、アントワーヌは『フランス王妃の名前に似ている』というだけで、記憶していた。
「詳しい技術が分からないからそこは研究してもらうとして……あ、そういやホルンベルガーは学校を作っていたはず。金を惜しまず突っ込んで最高の研究機関を作ったのよね。ブリュンヒルデはろくでもないのにホルンベルガーのご先祖様は立派な人たちだったのよね」
ブリュンヒルデは製紙を扱うグラウ工房とホルンベルガー公爵家が誇る、ヴィジュール大学にあてて手紙を書いた。内容は『木を溶かして紙を作れ』を丁寧に書いたものだ。
腐った畑に生息しているブリュンヒルデは専門知識など持ち合わせておらず、あるのは身に余る権力だけ。
前世の記憶とブリュンヒルデの傲慢さが合わさり、『腐りきった傲慢な令嬢』に進化を遂げたのだった。
ペンは製鉄工房に依頼して鋼鉄ペンを作ってもらうことにした。
「ボールペンが欲しいけど無理だろうから、せめて万年筆っぽい奴がいい。鉄板を丸めて切れ込みを入れる……、たしかペン先は摩耗に強い合金なのよね。こ、こんな感じだったはず」
ブリュンヒルデはわざわざ図入りで書いて工房に依頼した。
すべて丸投げしたブリュンヒルデはのんきにハイティーを楽しんでいたのだが、羊皮紙の存在に気づき、「ホルンベルガーの財力だったら値段を気にせず羊皮紙を買えるじゃない!」と羊皮紙の買い付けに勤しんだ。
ブリュンヒルデが買い付けに没頭している中、ブリュンヒルデと入れ違いでユリアは公爵の執務室に入った。
顔が赤く、熱で目が潤む彼女を見てディートリッヒは驚く。
「ユリア、どうしたんだ? ずいぶん体調が悪そうだが……」
傍系の娘、そして横暴なブリュンヒルデに怯えず、ずっと付き従ってくれたことで、ディートリッヒはユリアを第二の娘のように思っていた。自然とその声は優しさを帯びる。
ユリアはその声にディートリッヒが自分の味方だと確信した。笑みがこぼれそうになるのを必死で抑え、代わりに弱弱しい表情でディートリッヒを見つめる。
熱のせいで潤む瞳がユリアの可憐さを一層際立たせた。
「旦那様、申し訳ありません。私が至らないせいでブリュンヒルデ様に迷惑をかけてしまいました……」
今にも消えそうな声でユリアは嘆く。ディートリッヒはぎょっと目を見開く。
「ど、どういうことだね。ユリア。遠慮はいらない。すべて話してくれたまえ」
ディートリッヒの言葉にユリアは「でも……ご迷惑をかけてしまいます」などと勿体つけつつ、最終的には泣きまね入りで話し始めた。
「ペルタがお嬢様の悪評を振りまいているのです。お嬢様はただ繊細なだけなのに、ペルタはお嬢様にぶたれたとか、茶器を投げつけられたとか、そんな突拍子もないことを触れ回っているのです!」
ちなみに、ブリュンヒルデの悪評が流れているのは事実だが、ペルタのせいではなく、ブリュンヒルデの自業自得だった。
ディートリッヒはユリアの話を注意深く聞いた。
「ほう、使用人が主人を陥れるなど言語道断。ユリア、そんな相手にはどんな仕置きが必要だと思うかね」
ディートリッヒの言葉にユリアはにやけそうになる顔をどうにか我慢し、困った顔をした。
「そ、そうですわね。命まで取るのは可哀そうです。鞭打ちのあと、屋敷を追い出すだけでよろしいのではないかしら?」
優しさをにじませる顔でユリアは言う。しかし頭はペルタへの憎悪で一杯だった。
(ホルンベルガーを追い出されたらもうどこも雇ってくれないわ。路頭に迷うがいいわ!)
「……わかった。参考にしよう。カルム、手の空いている使用人を呼んで来てくれ。そしてペルタとメイド長を必ず連れてくるように」
ディートリッヒの言葉を受けてカルマンは動いた。ユリアはしおらしく下を向いたが、口元は歪に歪む。思い通りにディートリッヒが動いてくれるので、可笑しくてたまらなかった。
(旦那様は私の言う通りにして下さる。ブリュンヒルデを再び孤立させるのも、難しくないわね)