第三十九話 避難
閃光と轟音、まるで雷が地を貫いたかのようにグリセルがいた場所は光の柱となっていた。護衛騎士はヴォルフラムを守りながら走る。ギュンター達は化け物の異様さに、もはや人間が太刀打ちできる存在ではないと悟った。
「ロキ!! 馬車を戻して! ヴォルフラム様たちを馬車に乗せましょう!!」
離れた場所で馬車に揺られていたブリュンヒルデはロキに叫んだ。
「いけません! 今戻ればお嬢様も巻き込まれます。それに殿下は軍馬を用意されていました。鍛えられた軍馬は主人の下に戻ります。馬車で逃げるよりも早く離脱できるでしょう」
ノイラートが厳しい声でブリュンヒルデに言った。これ以上、ブリュンヒルデを危険な目に合わせたくない。そう強い思いを込めて彼は言った。至極まっとうな彼の言葉と力強い瞳に気圧されてブリュンヒルデは何も言えなくなっていた。
(わたしがヒロインだったらみんなを助けられる。でも、私はヒロインどころか悪役。私にできることはない)
悔しさを押し殺し、ブリュンヒルデは静かに傾いた。
ノイラートの表情が解れる。もしブリュンヒルデが頑なに行こうとしていたら、ノイラートでは止められない。気高く美しい彼女が人を助けるために動こうとする気持ちをどうしても尊重したくなる。それゆえ、ブリュンヒルデが引いてくれてほっとした。
「皇太子殿下の馬術の腕は折り紙付きです。何も心配なさることはありません」
各種の大会で名をはせるヴォルフラムの力量を口に出してノイラートはブリュンヒルデを慰める。いまだ硬い表情の彼女をなんとか元気づけようとした。
ブリュンヒルデを乗せた馬車は市街地を走り抜け、城門を通り過ぎる。門兵は武装しておらず、よく見ると区長のハネスだった。彼は深くブリュンヒルデたちの方へ頭を下げた。残っているのが彼だけだということは民の避難は思った以上に早く済んだらしい。
「小さいとはいえ、一つの街の民をこれほど早く避難させられるなんてハネスはすごいのね」
ブリュンヒルデが思わずつぶやくとノイラートは答えた。
「そうですね。本当ならもっと時間がかかってもおかしくありません。避難誘導がよほど見事だったのでしょう」
ノイラートも感心するように言う。中枢にいたならの才覚を最大限に使えるだろうに……とノイラートはハネスの能力を惜しんだ。
「お、お嬢様!! 前方から二騎参ります! ど、どういたしましょう」
慌てふためくロキの言葉でブリュンヒルデは窓から身を乗り出す。すると甲冑に身を包んだ軍馬がこちらに向かって駆けていた。よくみると旗を振っている。白地に狼のシルエットとクロスしたダガーの紋章は近衛騎士の旗だ。帝都にいないロキが知らないのも無理はない。
「近衛騎士の方よ。止まってちょうだい」
ブリュンヒルデが答えるとロキの声は少し弾む。
「そ、そうなのですねっ! 良かった! お嬢さまを迎えに来たんですね!」
自分の両腕にホルンベルガー公爵令嬢の命を抱えていたロキは重圧から放たれる開放感に表情を明るくした。
にこにこと笑顔を振りまくロキを近衛騎士の人間は少し苦笑した。一騎がゆっくりと窓に近寄ってくる。
「ホルンベルガー嬢、ご無事で何よりです」
少し高い、中性的な声にブリュンヒルデはドクンと鼓動が高くなる。脈拍が早くなるのは警戒心ゆえだ。
「エル……いえ、ベネシュ卿!?」
腐女子の名残でファーストネームを呼びそうになったブリュンヒルデは慌てて言いなおす。
「エルで大丈夫ですよ。むしろそう呼んで下さって光栄な限りです」
皇太子の側近の彼は近衛騎士の地位も持ち、選ばれた者だけが身に着けられる甲冑に身を包んだエルンストは柔らかい笑顔をブリュンヒルデに向ける。普通の貴婦人なら卒倒するほどの美貌だが、ブリュンヒルデは警戒心でいっぱいだった。
なにしろエルンストは悪役令嬢ブリュンヒルデの最大の敵だ。ヴォルフラムの忠誠、クララへの思慕から二人に仇なすブリュンヒルデを常に敵視している。それはあくまでゲームの中での話だが、悲惨なブリュンヒルデの末路を思うとブリュンヒルデはどうしても身構えてしまうのだ。
硬い表情のブリュンヒルデをエルンストは恐怖心と誤解し、少し微笑んだ。
「ホルンベルガー嬢、近衛騎士だけでなく、軍も動員しております。保護した民から魔獣が暴れる証言を得ました。もはや誰もあなたを疑うことはありません。ご安心を」
その言葉にブリュンヒルデは少し緊張を解した。民の避難が早かったのもエルンストがいたからだろう。どうやらヴォルフラムに協力した段階で彼も動いてくれていたらしい。
「ミレッカー卿は助かりますわね?」
「もちろんです。今日中には大手を振って大通りを歩けることでしょう」
「良かったですわ……」
ブリュンヒルデは心から安堵した。自分のために汚名を被ったミレッカーが常に気がかりだった。
「ああ、そうですわ。街の魔獣が雨に濡れて覚醒してしまったようです。ああ、覚醒っていうのは、魔獣の本来の能力が開放されることですわ! 皇太子殿下がまだ中にいらっしゃいます!! 早く助けなければ!!」
ブリュンヒルデが声を荒げるとエルンストは少しだけ表情を陰らせる。すぐにそれはかき消され、優しい顔に変わった。
「エミリオ率いる部隊が皇太子殿下救出に動いております。それに皇太子殿下の馬術の腕は確かです。無謀な戦いは挑みませんし、必ず逃げ切るでしょう。それと、住民の避難はルドルフが責任をもって隣の区に誘導しましたのでご安心を」
その言葉に少しだけ安心する。
「良かったですわ」
「すべてあなたのおかげですよ。ホルンベルガー嬢」
エルンストが含みのある笑みを浮かべてブリュンヒルデを見つめた。目を丸くして彼を見つめるとエルンストはブリュンヒルデを褒めたたえ始めた。
「あなたの第一報があったから我々が先に動けました。それがなければ口にするのもおぞましい大惨事になっていたことでしょう。国を守る身としてお礼申し上げます」
ゲーム上の最大の敵であるエルンストから敬意を向けられ、ブリュンヒルデは戸惑ってしまう。しかも、ブリュンヒルデが気づけたのはクララたちの地道な捜査の結果でもある。ヒロインの手柄を分捕っているだけではないだろうか。ブリュンヒルデは慌てて弁明した。
「ベネシュ卿。わたくしの手柄ではありませんわ。クララさんが地道に捜査をしてくれていたからです。それに、騎士団を引き連れていながら魔獣の覚醒を阻止することはできませんでした。もはやこの街を助けることはできなかったのです」
ブリュンヒルデの言葉にエルンストはふっと笑う。
「一番の宝、命を救うことができたのです。そう悲観しないで下さい。それにこの街を救う手立ては残されています。私は皇宮図書館で魔獣の文献を漁り、それを知ることができました。そして幸いにも我々はそれを手にしています」
「え?」
ブリュンヒルデは目を見開く。もしかしてクララが覚醒したのだろうか。それならば戦える。勝利が確かなものになる。沸き立つブリュンヒルデにエルンストが力強い声で告げる。
「ホルンベルガー嬢! 薔薇の乙女であるあなたがいれば魔獣など恐るるに足りません!!」
(ちがう!! ちがう!! 私は悪役令嬢!!!!!!!)
盛大な誤解をされたブリュンヒルデはそう叫びたいのを堪えた。詰んだ。




