第三十八話 覚醒
奇妙な生物は自分を襲う煙から逃れようと数本の足をじたばたともがいでいた。直視するには気持ちが悪く、ブリュンヒルデは視線を逸らした。
「ブリュンヒルデ、お前はここから離脱しろ。弱ってはいるが、手負いの獣が一番厄介なんだ」
ヴォルフラムがブリュンヒルデに言った。そしてノイラートに視線をやり、彼に言い含める。
「ブリュンヒルデを安全なところまで送ってくれ」
「かしこまりました。お嬢様。こちらへ」
ノイラートは手を差し出してブリュンヒルデを誘う。
だがブリュンヒルデは少し戸惑った。
(皆を巻き込んでおいて私だけ離脱するのは気が引ける……でも、ここにいたって何の役にも立たないもんね。むしろ逆に足を引っ張るだけだろうし)
ブリュンヒルデはノイラートの言葉ももっともだと思い、促されるまま歩いた。去り際、ヴォルフラムの方に視線を向けると。彼は護衛騎士に命じて矢に革ひもをくくりつけてさせ、這い出るグリアセルの足を射抜かせていた。動く的を外さずに完璧に射貫護衛騎士の力量はさすがと言うほかない。
(うわぁすご……。こりゃ私の出番ないわ。大人しく引っ込んでおこう)
ブリュンヒルデは安心してノイラートに導かれるままその場から離れる。
いないと思っていたロキは馬車を手配していたらしく、御者台に座っていた。ブリュンヒルデと視線が合うと、彼は恐縮しきった顔で謝った。
「そ、その……噂を鵜呑みにして申し訳ありませんでした。魔獣……あんなものは存在してはいけません。焼き払おうとしたお嬢様のお気持ちはよくわかりました」
異形の化け物を見てロキは認識をすっかり改めた。
ブリュンヒルデは彼の律義さに感心しつつ、謝罪を受け止めた。
「魔獣を信じろという方が無理難題ですもの。放火犯が街に訪れて怖がるのも無理はないわ。私は気にしていないからあなたも気にしなくていいわ。それよりも馬車の手配をありがとう。歩き詰めで少し疲れていたの」
ブリュンヒルデがそういって笑うとロキの表情がみるみる明るくなった。
「き、恐縮です! あまり揺らさないように壁外までお送りします!」
「よろしくね」
ブリュンヒルデはそう言って馬車に乗り込んだ。
窓を見るとグリアセルの最後の一本の足が射ぬかれ、グリアセルの動きはなくなった。ヴォルフラムは声を張り上げる。
「縄を引っ張れ。本体を引きずり出すんだ!」
騎士たちはヴォルフラムの号令で一気に縄を引っ張る。煙突から徐々に本体らしきものが見えてきた。
ブリュンヒルデはそれを見ながらプロデューサーの蘊蓄を思い出す。
『本物のグリセルは細長いだけの生物だけど、魔獣がそれだとつまらないでしょう。だから、僕はもう一つの生物と掛け合わしたんです。ウロコフネタマガイ、硫化鉄の体を持つ生物なんですよ』
プロデューサーの自慢気な言葉、そしてふふんと得意気な顔、当時はスゲー!と単純に喜んでいたが、今のブリュンヒルデは血の気が引く。
(矢くらいじゃビクともしないじゃない! ヴォルフラムに伝えないと!)
ブリュンヒルデが馬車から降りようとしたが、ヴォルフラムは殻の存在に気づいたようで仰向けにさせて鱗の切れ目を狙いやすいようにしていた。
即座に対応できる行動力、思考力。キャラ設定で知ってはいたが、それを改めて目の当たりにしてブリュンヒルデはとても心が弾んだ。
(やっぱりヴォルフラムってすごい……)
ゲームのキャラだからではなく、素のままの彼を尊敬した。
(ますます私がここにいる理由がなくなったわ! 足手まといは早々に離脱するのが吉! モタモタして下手に怪我でもしたらみんなの迷惑になるわ)
それに母との約束もある。
ブリュンヒルデはロキに馬車を出すように言った。
「もう出して大丈夫よ。離脱しましょう」
「わかりました!」
ロキは元気よく返事をして馬を走らせる。
揺れる馬車の中でブリュンヒルデはほっと一息を吐いた。肩の上にのしかかっていた重い何かが取っ払われて実に気分が爽快だった。
「魔獣の存在も証明できたし、これでミレッカー卿を助けられるわね。屋敷に戻ったらすぐに手続きを始めましょう」
「そちらは私にお任せを。お嬢様はゆっくりとお休みください」
ノイラートは顔をほころばせて言う。
憂いが取り除かれた今、二人の表情は明るい。
ブリュンヒルデは窓外から街並みを眺めた。避難誘導が上手くいったらしく、人っ子一人いない。それに気を良くしていると、窓ガラスに水滴が付いた。
ほんの一滴だけだったが、ブリュンヒルデは体が芯まで凍り付いたようになった。
「お嬢様。雨が降り出したのでスピードを緩めます。滑ったりしては危ないですからね」
ロキが穏やかな声で言う。
その直後、後方から雷のような轟音が響いた。ブリュンヒルデの額に冷や汗が流れる。
魔獣が覚醒したのだ。




