第三十二話 母と娘
ブリュンヒルデはレナやマルティナ夫人に甲斐甲斐しく世話を焼かれていた。マルガレーテは何かにつけて様子を見に部屋を訪れ、「温室にステキな花が咲いたのよ。部屋に飾るといいわ」と色とりどりの花を届けてくる。
「ありがとうお母さま」
そう言いながらも浮かない顔の娘をマルガレーテは胸が締め付けられる思いで見る。
(以前はどうあれ、今のブリュンヒルデはとてもいい子だわ。それなのに、事情も知らない有象無象はこの子を悪女だなんて決めつけて騒ぎ立てをする……。本当に悔しくてたまらないわ)
マルガレーテは唇をかむ。
公にはミレッカーが犯人とされているが、それを信じているものはほとんどいない。ホルンベルガー公爵家を恐れて社交界で表立っていう者はいないが、市中の噂をかき消すのは困難だった。
マルガレーテの表情を見て心中を察したブリュンヒルデは胸がさらに苦しくなる。母を悲しませ、たくさんの人に迷惑をかけてしまったことがさらに堪えた。
「お母さま、本当にごめんなさい。家名に泥を塗ってしまったわ」
「まあ、なんてことをいうの。謝らないで。それにそんなことくらいで揺らぐような家名でもないわ。だから、あなたは安心して。そうだ、マダム・マドールが新しい香水を持ってきてくれたのよ。薔薇の香りなの。一足先に薔薇を楽しみましょう!」
「それは素敵だわ。お母さま。でも、それは……すべてが終わってから楽しむわ。あのね、今、ヴォルフラムさまたちがミレッカー卿の汚名を晴らすために動いてくださっているの。だから、その時に改めて薔薇を楽しむわ」
ブリュンヒルデの言葉にマルガレーテは反論したくなった。娘がミレッカーに騙されているのだと彼女は思ったからだ。しかし、ブリュンヒルデの表情は悲しげではあったが、強い光があった。
「ミレッカー卿は本当に悪くないのね」
マルガレーテは改めて尋ねた。
「はい、それどころかわたくしを守ってくれたわ」
ブリュンヒルデの緑の目がマルガレーテをまっすぐに見つめる。その強さにマルガレーテは小さく笑った。
「……あなたを信じることにするわ。あなたがミレッカーを案じるように、私も彼が無事に戻ることを祈るとしましょう」
「ありがとうお母さま」
ブリュンヒルデが微笑むとマルガレーテも笑った。
柔らかい雰囲気が母娘を包む、レナもマルティナも微笑ましい顔でそれを見ていたが、扉の外が騒がしくなり、何やら複数人の言い争いの声が聞こえる。
折角のいい気分を壊されたマルティナ夫人は眉をひそめた。
「レナ、様子を見てきて。むしろ追い払って」
「はい」
同じ気持ちのレナはすぐに動き、廊下に出るために扉を開けた。その隙間からブリュンヒルデの知る声が聞こえた。
「お願いです。どうかお嬢様にお目通りを!」
鍛えられた体から出る力強い声、少し低めの音色にブリュンヒルデは名前を呼んだ。
「ノイラート卿!? どうかしたの?」
ブリュンヒルデは立ち上がって扉まで駆けた。急なことでマルガレーテもマルティナも止めることができなかった。
レナは止めようと扉の前で立ちふさがるが、ブリュンヒルデは彼女の肩に手を置くと、少し力を入れて押しのけた。
「ごめんなさい。レナ。私はどうしてもノイラート卿の話を聞きたいの」
大好きなお嬢様にそう言われてレナは嫌とは言えなかった。レナは扉を開けてブリュンヒルデの通り道を作った。
「ありがとうレナ」
「……お話は私も聞きますから」
彼女が言うとブリュンヒルデは頷いた。
「ノイラート卿、どうかしたの? もしかしてミレッカー卿に何か?」
「い、いえ。ミレッカー卿に問題はありません。ですが、ゲンドル区に滞在するクララ嬢に異変が生じたと同行していたヘルモルト卿から連絡がありました。顔色は悪く、体中が凍えたように震えているそうです。お嬢様がケルシャでクララ嬢の様子を常に気にされていたので、ヘルモルト卿が報せてきました」
ノイラートの言葉にブリュンヒルデは顔色をなくした。
(クララの異変、もしかして魔獣の気配を察知したのではないかしら?
!)
険しい顔のブリュンヒルデがノイラートに言う。
「とても重要な情報だわ。ノイラート卿。すぐに私を案内して。お母さま、ティーガ騎士団をわたくしの護衛に付けて下さい」
「ブリュンヒルデ! 何があったのかわからないけれど、危険なことに手を出すというのなら許しません。お願いだから屋敷に居てちょうだい」
マルガレーテは目を吊り上げて怒鳴る。可愛い娘を守りたい親心だった。ブリュンヒルデがどこに行って何をしようとするか、マルガレーテは何もわからなかったが、娘の表情、そしてノイラートのただごとではない態度に危機感を募らせていた。
「ティーガ騎士団を派遣するのは許可しましょう。でも、条件はあなたがこの屋敷にいること!」
マルガレーテの言葉にブリュンヒルデは言葉が詰まる。マルガレーテの心配は痛いほど胸の突き刺さる。
「ごめんなさい。お母さま。でも、どうか私に行かせて。そうしないとたくさんの人が犠牲になってしまうわ」
戦いに必要なのは戦力もさることながら情報だ。圧倒的に情報が不足する中、ブリュンヒルデの持つ知識は魔獣に対抗する手助けになる。ブリュンヒルデが必死に頼み込むが、マルガレーテは首を振らない。愛娘がさらなる災厄に巻き込まれるのをマルガレーテは我慢できなかった。
「それでもだめよ。私はあなたが心配なの。お願いだからここにいて」
マルガレーテはブリュンヒルデの腕を掴もうと手を伸ばした。しかし、ブリュンヒルデは腕を引いた。
「お母さま、私は貴族です。貴族の義務があります。お母さまはお茶会で出資者を募り、孤児院や医療施設の援助をされていますよね。昔、お母さまが子供たちと泥遊びをしたことを覚えていますわ。私が止めたのに、お母さまは転びそうになった子供を抱き上げて助けましたね」
ブリュンヒルデは混在する記憶を思い起こす。母親を盗られたようで悔しかった気持ちが胸に蘇った。
「それと同じことです。危険の度合いが違うのは承知ですが、ここで私が行かなければ多くの犠牲が出ます」
ブリュンヒルデはまっすぐにマルガレーテを見た。そして少しだけ悲しそうに眉を寄せる。
「お母さまの愛に守られて、多くの人の悲しみに後悔するのか、お母さまの反対を押し切って自分の正義を押し通すのか……正直、迷います。お母さまが大好きだから、悲しませたくありません」
ブリュンヒルデの緑の目が揺れる。
マルガレーテの目も同様だった。
「……悲しむわ。あなたが心配で今も胸が張り裂けそうよ」
マルガレーテは言う。そして一歩進むとブリュンヒルデの両肩を掴んだ。
「約束して。絶対に怪我をしないと。それさえ約束してくれるのであれば……許可をするわ」
マルガレーテは悲しそうに笑った。ブリュンヒルデの目が輝きを取り戻す。
「ありがとう、お母さま」
「まったく。本当にどうしようもないわがまま娘だわ。止めたら一生後悔して泣き暮らすんでしょう? とんだ脅しよ。私はあなたに笑顔でいて欲しいもの、反対なんてできるわけないじゃない」
マルガレーテは何かを吹っ切った顔だった。顔は先ほどの動揺が嘘のように消え、公爵夫人の威厳に満ち溢れていた。
「カルマン!! ティーガ騎士にすぐ準備するよう言いなさい。ありったけの装備を持ち出して! ノイラート、必ずブリュンヒルデを守りなさい。危険だったらこの子の命令は無視してすぐに公爵家に戻ること、いいわね!」
マルガレーテの言葉にノイラートは胸に手を当て、深く頭を下げた。
使用人たちは心配そうにブリュンヒルデを見つめていたが、壁に背を付けて道を空けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
マルガレーテは微笑んだ。
「「「行ってらっしゃいませ、お嬢様」」」
マルティアや他の使用人たちが深く頭を下げる。
ブリュンヒルデは皆に見送られながら、ノイラートと一緒に屋敷を出た。カルマンの指示でティーガ騎士団の第一隊がすでに準備を完了していた。
「ティーガ騎士団、第一隊隊長、ギュンター・キルステンと申します。ここにいる者は右から、スミロ、アルバン、エルマーです」
良く日に焼けた大柄の壮年の男性がブリュンヒルデに挨拶した。後ろに控えている騎士もだいたいそれくらいで、岩のような見た目と無数の傷から相当の熟練者ということが伺い知れる。
「他の隊は準備次第すぐに出発します。できることなら、他の隊と行きたいところですが……」
「ご、ごめんなさい。時間との勝負なので、すぐに出発したいです」
ブリュンヒルデが言うとギュンターは豪快に笑った。
「わかりました。ご命令に従いましょう。ですが、ここから先は私の言葉に従って頂きますよ。何より優先されるのはお嬢様の御身ですから」
ギュンターの鳶色の目がぎろりと光り、ブリュンヒルデはコクコクと頷くしかなかった。




