第三話 腐女子は気付かない
どれくらいたっただろうか。
気が付けば朝日が窓から差し込み、ユリアを明るく照らし始めた。
「夜明け……? 夜が明けてしまったの? どうして!?」
ユリアは感情のまま突っ走ってブリュンヒルデの扉を開けた。
きっと着替えもできず、寝ることもできず、泣きながら立っていることに一縷の希望を持って。
しかし、ユリアの目に入ってきたのは、机の上に頭をのせてグーグー寝息を立てているブリュンヒルデの姿だった。
「寝ている……?!」
ユリアが腹が立ったのも無理はない。
こっちが痛くて寒い思いをして廊下で立っていたというのに、高いびきで寝ているとは何事だろう。
メラメラと怒りの炎でブリュンヒルデを見つめるユリアだが、緑の目が突然開いた。
「あら、おはよう。ユリア。呼びに来たの?」
ゆっくりと頭を起してブリュンヒルデは微笑みかける。
朝日を浴びてキラキラと金髪が輝く彼女は幻想的なほど目にまばゆかった。毒気を抜かれたユリアは自然と挨拶を返してしまう。
「お、おはようございまックシュン。クシュン!」
くしゃみをするユリアにブリュンヒルデは心配した。
「あら、風邪? ゆっくり寝て休むといいわ。お父様たちにはわたくしから言っておくから」
「い、いえいえ。そこまで心配には及びません! 私なら大丈夫でックシュン!クシュン!!」
ぶるぶると身震いするユリアにブリュンヒルデはベルを鳴らして使用人を呼んだ。
ユリアは『昨日の夜に鳴らしてよ!!』と心の中で叫んだ。
人の気も知らないブリュンヒルデはチリンチリンと呼び鈴を鳴らすが、ユリアの策略のせいで使用人はなかなか来ない。
しびれを切らしたブリュンヒルデは自ら動いた。部屋を出て廊下を渡って使用人を探す。ちょうどバケツと雑巾を持ったペルタを見つけ、ブリュンヒルデは声をかけた。
「ペルタ。どうして誰も来ないの? 職務怠慢よ」
メイドのペルタを見つけてブリュンヒルデが言うと彼女は怯え始めた。
「も、申し訳ありません。その、ユリアがお嬢様のすべてを受け持つと言っていたもので……」
「あら、そうなの? やる気のある子なのねえ。でも、オーバーワークで体を壊したみたいだから、しばらく休ませてあげて」
ユリアを仕事意欲がある人間と勘違いしたブリュンヒルデは感心し、親切心を出した。ユリアのやる気は別方向なのだが、ブリュンヒルデは気付いていない。
「お休みを……ですか?」
ユリアからブリュンヒルデの恐ろしさをさんざん吹き込まれているペルタはぶるぶると震え出す。彼女の耳は『使えないからクビ』に聞こえたのだ。腐女子の魂が揺り起こされる前、人間を信じないブリュンヒルデはペルタにも辛く当たっていた。それもあり、『きっとクビなんだわ。私も粗相したらすぐに……』とおののいていたのだが、ブリュンヒルデの言葉は続く。
「風邪もひいたみたいだから、紅茶にすりおろし生姜とハチミツを入れたものを持って行ってあげて。酷いようなら医者の手配を」
「医者……ですか?!」
「必要ならね」
ブリュンヒルデはペルタの反応に驚いた顔で言う。だが、ブリュンヒルデはそれに気を留めない。この世界で医者がどれだけ貴重で高くつくかブリュンヒルデは考えていなかった。というより、頭脳のリソースをすべて腐妄想に割いていた。
「わ、わかりました。すぐに用意いたします」
ペルタはブリュンヒルデの慈悲深い言葉に驚くとともに、だいぶ誤解していたのだと悟った。
ペルタはブリュンヒルデの指示通りに紅茶を作ってユリアに持っていった。
「クシュン! クシュン!!」
ベッドの中で鼻水をたらしてクシャミをするユリアにペルタは冷めた目で見る。
「あら、ほんとうに風邪をひいたのね。仮病かと思ったわ」
いつになく冷たい言い方にユリアはカチンときた。上の者には媚びを売り、下の者には悪態をつくのがユリアのモットーである。
「仮病なわけないでしょ。お嬢様から庇ってやっている恩を忘れて私にずいぶんな口をきくわね?」
ユリアが言うとペルタは笑った。
「それなんだけど、お嬢様と話してみたけど全然怖くなかったわよ。むしろ優しかったわ」
ペルタはそう言いながら紅茶カップをユリアに渡す。
温かい湯気と少し鼻をぬける匂いにユリアは癒される。口に含むと生姜の辛みとハチミツの甘さ、茶葉の豊潤な香りが広がって今までにない味覚が舌を支配する。
「なにこれ。美味しいわね……。このレシピ教えてよ。そうすればさっきの暴言はなかったことにしてあげるわ」
ユリアが言うとペルタは笑った。
「ハハッ。これはお嬢様があなたのために用意してくれたのよ。レシピはお嬢様のだから教えるわけにはいかないわね。ああ、そうそう。今日から私、お嬢様の世話をちゃんとするからあなたはそこでゆっくりと休んでなさいな」
ペルタはそう言ってユリアの部屋を出た。
ユリアは目を見開いてペルタの後姿を見送った。
「な、なんなのよ……! 一体どうしたって言うのよ!」
怒りのままユリアは茶器を投げつけた。
「ペルタごときが私にあんな態度を取るなんて絶対に許さない!! クビにしてやる!! 紹介状なしで路頭に迷うがいいわ!!」
ユリアはせき込みながら、フラフラと廊下に出た。行き先は公爵の執務室だった。すれ違う使用人はユリアの体調を気遣うが、ペルタへの復讐に頭がいっぱいのユリアは「邪魔よ。どいて」とふてぶてしい態度だった。
「ユリア、あんな子だったっけ?」
首をかしげる使用人ライに通りがかりのメイドのエミが答える。
「えー。普段からあんな感じよ。でも男の人の前で猫を被らないのは珍しいから、体調を崩して気が立っているのかも。それはそうと、お嬢様が素敵な飲み物を考案されたんですって。体が温まって甘くておいしいの! 風邪に効くんですって」
「あのお嬢様が!? ど、毒でも入っているんじゃないのか?」
訝しむ男にメイドは面白そうに笑う。
「そう思っちゃうわよね。でも、お嬢様って本当はとってもお優しいのよ。私もびっくりしちゃった。いつもはユリアがお嬢様の世話役をしているから、荒れたお部屋とか怒鳴り声だけで怖い人だって思ったんだけどね」
「いや、十分に怖いぞ……」
ライは思わず突っ込む。
「でも実際会って見ると全然そんなことはないのよ。ライも一度お嬢様にお会いするといいわ。気さくで面白い方よ」
エミは楽しそうに笑ってライの脇を通って階段を下りて行った。