第二話 腐女子に忍び寄る黒い影
公爵家の晩餐はいつも夫妻だけが食堂で摂る。
ブリュンヒルデは、常になにかしでかして謹慎を受けていたからだ。
ところが、今回は素直に反省したため、久しぶりに家族そろって晩餐を迎えた。公爵夫妻は真人間になったブリュンヒルデを大いに褒めたたえ、何かの祝い事かのように豪華な食事と秘蔵のワインを開けた。
その様子をユリアは苦々しい気持で見た。
『せっかくブリュンヒルデを孤立させてやったのに、なにか策を練らないと私の付け入る隙がない……わ』
ユリアがはっきりと断言できなかったのはブリュンヒルデが堂々として実に美しかったからだ。昨日までの陰気さが嘘のようにキラキラと輝き、公爵夫妻と朗らかに会話する。
嫌悪感しかない光景にユリアは給仕を他のメイドに押し付けて廊下に出た。
白い大理石の床、壁にかけられた絵画の数々、天井できらめくシャンデリアや花を生ける花瓶……そのどれもがため息が出るほど美しい。
これがすべて自分のものだったなら、とユリアはいつも思っていた。
『せっかく公爵夫妻に取り入ったのよ。もっと気に入られて養女になってやるわ! 没落したとはいえ、私は傍系の貴族だもの、資格は十分にあるわ』
下級貴族はともかく、上級貴族の養子縁組は色々と煩雑なのだが、途方もない夢を信じているユリアは身の程知らずの野心をさらに燃え上がらせた。
ユリアは奥に進み、小部屋を開けてリネンをまとめているメイドに声をかけた。
「ペルタ。さっき、お嬢様が話しているのを聞いたのだけど、お嬢様はあなたのことをクビにするそうよ」
「ええ! そんな、私、何かしてしまったの!?」
怯えて真っ青になるペルタにユリアは甘い言葉をかけた。
「さあ、わからないわ。何か気に入らないことでもあったんじゃあないかしら。お嬢様の癇癪の酷さはあなたも知っているでしょう? とても怒っていて八つ当たりで私がぶたれたわ。でも大丈夫よ。私は旦那様からの信頼があるの。私がとりなしてあげるから、当分お嬢様には近づかないほうがいいわ」
「ええ、お願いするわ。ユリア。私の生家は私の給金だけが命綱なの。ここを追い出されたら一家が飢え死にしてしまうのよ」
ペルタがすがるような目でユリアを見る。
「大丈夫よ。私がなんとかしてあげるから」
ペルタはユリアを信頼し、ブリュンヒルデの世話係から外れた。ユリアは他の侍女にも同じようなことをしてブリュンヒルデが孤立するように仕向けた。
貴族の令嬢はメイドの手を借りなければ何もできない。
湯あみの準備も衣服の着替えも、ターンダウンもブリュンヒルデはユリアを呼ぶしかない。
(ふふ、こうすれば旦那様たちにブリュンヒルデが意地悪で私だけに仕事を押し付けているように見えるわ)
哀れな被害者であるユリアに公爵夫妻は手を差し伸べ、ブリュンヒルデに罰を与えるはずだ。
ユリアはその未来を想像してほくそ笑んだ。
ところが、いつまで経ってもブリュンヒルデは呼び鈴を鳴らさない。それどころか、逆にブリュンヒルデを呼んできて欲しいと料理長にせっつかれ、ユリアはしぶしぶブリュンヒルデのところに行った。
「お嬢様。食事のお時間です……ちょっと!? 何をやっているんですか!!」
ユリアが驚くのも無理はない。ブリュンヒルデは目を血走らせながら机に向かって色々と書きつけている。床には丸められた紙が至る所に落ち、ユリアは驚くしかない。
目を点にするユリアにブリュンヒルデの冷たい声が響く。
「ユリア。呼んだ覚えはないわよ」
ブリュンヒルデはこちらを見ようともせずに言う。その態度に苛立ったユリアはつい言葉を荒げた。
「お食事はいらないんですね!?」
ユリアが言うとブリュンヒルデは手が止まった。
「あ……栄養補給がないと頭の巡りは悪くなるわね……。サンドイッチ……じゃないパンに肉と野菜を挟んで持ってきて」
ブリュンヒルデに命令され、ユリアは目が点になった。
そんな料理は聞いたこともない。
呆然とするユリアにブリュンヒルデは「早く!」とせっつく。
ブリュンヒルデは記憶を洗い出していかにエミリオとヴォルフラムがロマンティックにくっつくかを計画していた。一分一秒も惜しいブリュンヒルデは他のことなど構っていられなかった。
ユリアはブリュンヒルデの気迫に押され、しぶしぶ料理長に言葉通りに伝えた。
料理長……デビスはブリュンヒルデの指示に首をひねって難しい顔をする。
「一体なんなんだ? カトラリーはフォークとナイフでいいんだよな?」
「さっぱりわからないわ。でも恐ろしい形相で言われたの。言うことを聞かないとクビにされちゃうわよ。あの方はとても傲慢だもの」
ユリアはブリュンヒルデの恐ろしさをデビスに話して聞かせた。
「おっかねえなあ。俺は厨房から出ないからいいけど、世話役のあんたは大変だよな。応援しかできないが、後で厨房に寄ってくれ。温かいスープをごちそうするからさ」
「楽しみにしているわ」
そう言いつつ、ユリアは内心冷めていた。
『どうせ残り物でしょ。私にそんなものを食わせるなんて最低な男だわ。だから下品な男は嫌なのよ。やっぱり私に似合うのはもっと高貴な男だわ』
ユリアが料理長を見下げている間、彼はブリュンヒルデの指示通りに食事を作った。
「へえ、こいつはいいや。片手で簡単に食べられるし、工夫次第で色んなモンができそうだな。お嬢様はとんでもない天才かもしれねえ!」
料理長はそう言って食事の乗ったトレイをユリアに渡した。
そこには色合いの美しい見たことのない料理が並んでいる。
パンで肉と野菜を挟んだだけなのに、なぜこうも美味しそうなのか。
ユリアはその出来栄えを見て後悔した。
『しまった。私の発案と言えばよかったわ。今度からそうしよう』
舌打ちをしながらユリアはブリュンヒルデに届けた。ブリュンヒルデは片手で貪り食いながら必死にペンを動かした。
「他に御用は?」
「ないわ。下がって」
ブリュンヒルデはこちらを見ずに言った。
傲慢な態度にユリアは文句の一つでも言ってやりたかったが、公爵夫妻との仲が戻りつつあるブリュンヒルデにそんなことを言えば自分の身が危うい。
ユリアは歯を食いしばって部屋を出た。
『一体どういうこと……? 今までならすぐに癇癪を起していたのに、あの余裕はなんなのよ。腹立つったらありゃしないわ! もう一度、旦那様に嫌われるように仕向けなきゃ』
ユリアは爪を噛みながら、廊下を歩いた。
『夜の着替えとターンダウンのときにブリュンヒルデは呼び鈴を鳴らすわ。……わざと遅れてあの女に癇癪を起させてやろう。私をぶってくれれば、公爵様もきついお叱りをせざるを得ないわ』
貴族の令嬢ならともかく、使用人をぶったくらいでブリュンヒルデが折檻されるいわれはないのだが、没落した割に貴族意識の高いユリアはそうなると信じて疑わなかった。
ターンダウンは寝台の準備の事である。シーツを整えてベッドを眠れる状態にすることを指す。つまり、ユリアを呼ばない限り彼女は眠ることができないのだ。
ユリアはブリュンヒルデがいつ呼んでもいいように近くで待機した。あの女の泣きっ面を見られるのなら、寒いのも足が痛いのも耐えられる。
しかし、一向にブリュンヒルデが呼びに来る気配がない。ユリアは眠いのを必死で我慢してひたすら待った。夜の冷え込みで鼻水が垂れてきても、立ちっぱなしのせいでふくらはぎがパンパンにはれても、ユリアは頑張ったのだった。




