第十六話 知らない間に一人落とした
古今東西、美女が国を亡ぼす例はいくらでもある。とある高級将校は美女のスパイに骨抜きにされて国を売り渡し、敵国の王女に一目ぼれした王は自滅した。そんなことはちょっと大きめの本屋の歴史関係の本を当たればすぐに見つかるだろう。
エルンストは書類の束に囲まれながら、金色の女神の顔を思い出していた。実に美しい女性だった。透き通るような白い肌、ぱっちりとした大きな緑の目は宝石のよう、波打つ金髪は絹のように艶やかだった。
(美しい人だった。俺が今まで見た中で一番……いや、大陸中を探しても、彼女ほど美しい人はいないだろう。あの人と長年婚約しておきながら、心を動かされなかったヴォルフラム様は凄いな)
エルンストは昨日のことを思い出していた。
昨日、ホルンベルガー公爵家から主君の下へ戻った二人は、件の飲食物のレシピを入手できること、話した限りではブリュンヒルデに悪意はない……等の報告をした。
ヴォルフラムは二人の言葉を意外そうに聞いた。
「ほう。それは……驚きだな。何を企んでいるのか不気味ではあるが、お前たちがそう言うのなら安堵することにしよう。ご苦労だったな。ゆっくり休んでくれ」
労うヴォルフラムに険しい顔のルドルフが吠えた。彼は主君に忠実であったが、自分の中の正義を貫く男でもあった。ブリュンヒルデの悪名は知っていても、人のうわさより自分の目を信じる彼は、優しく応対してくれたブリュンヒルデを悪女などと思えず、ブリュンヒルデに嫌悪感を丸出しにするヴォルフラムは、騎士道にあるまじき行為だと考えた。
ルドルフは正義を愛する漢で、主君を諫めるのも臣下の務めとの考えも持っていたのだ。
「殿下、ホルンベルガー嬢と過去にどのようなことがあったのか……噂話は耳にしますが、それでも恋い慕ってくれる女性にあまりではないのですか。それに、小官が目にした限りでは、素直で優しい女性にしか見えませんでした!」
骨ばった拳に力が入る。茜色の目はやけに熱が入って燃えているように見えた。ヴォルフラムは友の常ならぬ雰囲気に戸惑うしかなかった。
「……ルドルフ。落ち着いてくれ。そしてブリュンヒルデの見た目に騙されないでくれ。彼女は容姿こそ美しいが、宮中に出回る噂は全て本当なんだ」
「そのような女性に見えません!」
頑固なルドルフは答えた。彼は見たものを信じる人間だった。貴族としても武人としても致命的な欠点だったが、野生のカンがそれを補っていた。
頑ななルドルフにヴォルフラムは困り果てた。
(ルドルフがこんなに心酔するなんて毒でも盛ったのだろうか? いや、ブリュンヒルデは苛烈な性格だが、卑劣ではない。ご機嫌取りも苦手な人間だ。……本当に心を入れ替えたのか?)
困惑したヴォルフラムはエミリオとエルンストに尋ねた。
「お前たちの目から見てどうだった? ブリュンヒルデは変わったか?」
エルンストははっきりと答える。
「わかりません。ご存じの通り、ホルンベルガー嬢は殿下以外の異性を近づけさせませんから、ホルンベルガー嬢と直接会話したのも今日が初めてです。ですが、噂とは程遠いというのが私の見解ですね」
「エミリオ、お前は?」
「私に会うなり令嬢が倒れられましたので断言はできませんが、変わろうとしているのは確かではないでしょうか」
二人の言葉にヴォルフラムは黙り込む。彼の記憶にあるブリュンヒルデは醜悪だった。常にヴォルフラムを追い回し、自分の思い通りにならないと癇癪を起す……貴族の傲慢さを懲り固めたような人間なのだ。
頭に思い浮かぶ魔女のような笑みにぞわわと悪寒が走るヴォルフラムだが、友人たちの言葉を跳ねのけるほど狭量ではなかった。
「……ブリュンヒルデが変わろうとしているのなら、夫である俺はそれを受け止めてやらねばならないな」
そう言いながら、ヴォルフラムの顔は硬いままだった。
一夜過ぎた今、その表情をエルンストは思い出していた。
(国一番の美女を妻にする男の顔だとは思えなかったな)
エルンストはヴォルフラムの緊張が滲んだ顔を思い出しながら、心の隅で別の考えが芽吹き始める。
(もし……ヴォルフラムさまが本当に婚約を嫌がっているのなら、俺が手伝うのもおかしな話ではない)
エルンストの脳裏にブリュンヒルデの美しい顔が浮かんだ。エルンストはそれをかき消すように頭を掻きむしり、机の上に突っ伏す。
「落ち着け俺、初めて俺に気がない女性に出会ったから執着しているだけだ。勘違いするな……」
今まで気になった女性は全てエルンストに心を寄せてくれた。ブリュンヒルデが気になるのも、エルンストの意地なのだ。
頬に当たる紙がひんやりとしたが、茹った頭を冷やすにはまだまだ足りなかった。




