第十二話 腐女子、卒倒する
皇太子とのお茶会当日を迎えた公爵邸は朝から大騒ぎだった。ブリュンヒルデは色々なドレスや宝石を侍女たちが選び抜いたものを何度も着替えさせられた。美しいブリュンヒルデは何を着ても似合うため、侍女たちが決めかねていたのだ。
さらに、マルティア夫人の指示で使用人たちは花を飾り、シェフたちは腕を振るってお茶菓子を作った。
太陽の日差しが強くなる昼下がり、狼のシルエットが施された皇族専用の馬車が到着し、ブリュンヒルデはドレスを翻して迎えに出た。彼女の気分は出待ちだった。
しかし、馬車から降りたのは金髪の少年ではなく、艶やかな黒髪の優し気な少年だった。
「ホルンベルガー嬢、殿下は多忙ゆえに私が代理で参りました。覚えておいででしょうか、ゲルシュバイク家のエミリオ・ハルティングです。」
低いが、優しさに満ちた声だった。その声を聞いた瞬間、ブリュンヒルデは自分の体に電流が走ったかのように痙攣した。
(キャアアアアアアキャアアア!!!! エミリオー!!!! かっこいいかっこいいっかっこいいいい!!!!!!)
推しを目の前にしたブリュンヒルデは立っているのもやっとだった。癖のない黒髪、柔らかい青い眼差し、すらりとした長身に見合う均等の取れた身体はさながら彫像のようで、ブリュンヒルデの体は興奮状態になり、いつ鼻血が出てもおかしくなかった。絶叫しそうになる声を必死で押しとどめ、抱き着きたい衝動をなけなしの精神力で耐えた。そうやってできたブリュンヒルデの表情は迷子のように頼りないものだった。何かの衝撃ですぐにでも壊れてしまいそうな儚さにエミリオは思わず目を奪われる。
かすかに震える華奢な身体が、善良を固めたようなエミリオの胸を打った。彼は貴族だったが、およそ宮廷に似つかわしくないほど純情で優しい人間だった。
「……ホルンベルガー嬢。皇太子殿下をお連れできず申し訳ありません。また、私では殿下の代わりになるとは思っておりません。しかし、私の目と耳で得たものは全て皇太子殿下にお伝えいたします。どうか、お嘆きなさいませんよう」
エミリオの優しい言葉一つ一つが、銃弾のようにブリュンヒルデの心臓を撃ち抜く。優しく響くアルトの声、気づかわし気に向けられる青い瞳、ブリュンヒルデは萌えすぎて気を失った。
その後は大騒ぎになった。
エミリオは彼女を抱きかかえ、執事に案内されるまま客間に向かった。ベッドに寝かせ、息を切らせてやってきた医者に場所を譲った。
「ハルティング卿、恐れ入りますが席を外して下さいますよう。お嬢様の診察をいたしますので」
初老の医者が言いにくそうに伝えると、そこでエミリオははじめて自分の無礼さに気づいた。
「失礼しました。ホルンベルガー嬢をよろしくお願いします」
エミリオは青白く、意識のないブリュンヒルデを何度も振り返りながら部屋を出た。別室へ案内されたあとも、エミリオはブリュンヒルデのことが気になって仕方がなかった。
さらに、執事から「医師の見立てによると、何かしら強いストレスがかかったためだそうです。ハルティング卿を驚かせてしまい申し訳ありません」と聞いて、エミリオは自分を責めずにいられなかった。優しい彼は、ブリュンヒルデのショックが『ヴォルフラムの代わりに自分が来たこと』と考えている。
(思えば僕も迂闊だった。彼女にとってこのお茶会は数少ないチャンスだったのだから、ショックを受けるのも当たり前だ)
エミリオは胸を痛めた。
「ハルティング卿、大変申し訳ありませんがお嬢様がこのような状況ですので、どうかお引き取りを願います」
執事は丁寧な言葉の中、言い知れぬ圧力を込めてエミリオに告げた。
「……わかりました。ホルンベルガー嬢に殿下をお連れできず申し訳なかったとお伝えください」
「承知いたしました」
執事は扉を開き、エミリオの退室を手伝った。こうでもしないと、無用の長物が動かないかもしれないと考えた。態度は客人に対する礼儀に外れていなかったが、義務で動く彼らの目は冷めていた。
ブリュンヒルデのことが頭を占めるエミリオは気付かず、重い足取りで馬車に乗り込み、馬車の窓から何度も振り返ってブリュンヒルデを案じた。
一方、ようやく目が覚めたブリュンヒルデはこの世のすべての幸せを浴びたように幸福だった。
(エミリオかっこいいかっこいい。声がまたいい。顔もいい。最高っ!!!!)
ゼェゼェハァハァと萌えの過剰摂取で悶えていたが、侍女のレナの目は悲しみに喘ぐ悲劇の美女に見えた。
レナはどうしていいかわからず、マルティア夫人に助けを求めた。気鬱を抱えながら後片付けの指示をしていたマルティナ夫人は、レナの言葉でさらに不快になった。
「お嬢様がとても苦しそうに悲しんでおられるのです。どうすればいいでしょうか……」
「泣かないでレナ、わたくしたちにできることは何もないわ。恋の病に効く薬はないのよ」
そう言いながら、マルティナ夫人は不敬と理解しながらも皇太子に対する怒りを鎮めることはできなかった。
(皇后陛下から、お嬢様に下された条件のことを皇太子はご存じのはず。限られたチャンスすら与えないというのかしら……)
マルティナ夫人は涙をぽろぽろ溢すレナを抱きしめながら、悔しさに歯を食いしばる。
他の使用人も同様に悲しみ、怒り、嘆いていた。そしてそれは妙な一体感を出した。
「結婚したとしても、皇太子殿下はお嬢様を大切にして下さらないかもしれないわ」
「冷たい皇太子殿下より、お嬢様を心から愛して下さる方と婚姻された方がいいのではないか?」
そして、その考えは公爵夫妻も同感だった。
帰宅した彼らは、皇太子の仕打ちに激怒した。
「やはり、この縁談は壊すべきだ」
「そうですわそうですわ!!」
怒りに燃える者、ブリュンヒルデの悲しみに同調するもの、何もできない無力感に打ちひしがれるもの、屋敷の人間は多様だったが、心の底から幸福感を味わっていたのは、当事者のブリュンヒルデだけだった。




