第一話 腐女子、転生する
癖のある金髪に白い指が触れ、ぱっちりと開いた緑の目が食い入るように鏡を覗き込む。
シャンデリアがきらめく豪華な部屋でホルンベルガー公爵令嬢ブリュンヒルデはオペラ女優さながらの大きな声で歓声を上げた。
「ここは神が与えたもうたBLの世界なんだわ……。最高。最高!!!」
完璧な美貌をもつ彼女から紡ぎ出される言葉はエレガントの欠片もなく、さらに言えば彼女の持ち味の意地悪な微笑も、傲慢さを与える冷たい眼差しもなかった。
つい先刻、傲慢で悪辣なホルンベルガー令嬢は、前世の記憶を思い出したのだった。
前世、彼女はゲーム『薔薇の乙女』の廃人であり、同時にド腐れ人間でもあった。イケメンたちの性格と完璧な外見に心臓を撃ち抜かれた彼女は、メインヒーローの皇太子とその側近の禁断の愛にトチ狂っていたのだ。
このゲームは女神の加護を受けたヒロインがイケメン達の協力を得て国の危機を救うストーリーだ。加護を受けた証として薔薇の刻印が体に浮き上がるから、ヒロインは『薔薇の乙女』と呼ばれる。そして薔薇の乙女と心を交わしたキャラは薔薇の加護を受けることができ、『薔薇の騎士』と評される。逆ハーエンドもあるため、全員が薔薇の騎士になることもある。なお、薔薇という言葉が頻繁に出てくるが、BLはまったく関係ない。
しかし、キャラクターが軒並み美形かつ濃ゆいバックボーンを持っているため、腐女子界隈で大ブレイクした。廃課金勢も大量に発生し、前世のブリュンヒルデも媒体問わず貢ぎまくった。
「ああ、何度見ても間違いないわ。『薔薇の乙女』のブリュンヒルデだわ! 私は間近で推しのBLが見られるのね!」
公爵令嬢ブリュンヒルデはゲームの悪役ポジションである。開発チームから『性格さえ良けりゃ老若男女問わず虜にした圧倒的な美女』と呼ばれる容姿を持ちながら、ヒロインを虐めぬいて犯罪を起こし、最後には皇太子たちに断罪される超正統派の悪玉なのだ。
本来ならそのブリュンヒルデに生まれ堕ちたことを嘆くべきだろうが、骨の髄まで腐っている彼女はむしろ狂喜乱舞した。
「ああ、最高だわ! 婚約者の名の下に地雷カプをことごとく駆逐できる上に推しの絡みを間近で見れるんですもの!! これは神がエミヴォル至上主義を貫けとわたくしに命じているに違いないわ! 二人をゴールインさせることが私の使命!」
ブリュンヒルデは喜びに打ち震えた。
なお、エミヴォルとは皇太子ヴォルフラムとその側近エミリオのカップリングである。俺様系クールビューティなヴォルフラムが受け、穏やかで落ち着いたエミリオが攻めである。
前世の彼女はこのエミリオ×ヴォルフラムのために生きたと言っても過言ではない。カプ固定の過激派の彼女はそのカプ以外を認めなかった。SNSも鍵をしっかりとかけ、自衛のためにフォロワーすら厳選した。
「ああ、なんという幸せ……」
ブリュンヒルデはとろけるような笑顔で悦に浸った。
そんな幸せをぶち壊したのは、ブリュンヒルデの父親ディートリッヒである。
ノックもなしに扉を開き、大声で怒鳴りつける。
「ブリュンヒルデ、いい加減反省したか? これに懲りて他の令嬢を虐めるのはもうやめなさい!」
「そうよ、お父様のおっしゃる通りよ。あなたはホルンベルガー公爵家の娘、家名に恥じない行動をなさい!」
父母は目を吊り上げてブリュンヒルデを睨んできた。
「奥様、旦那様、どうかもうお怒りにならないで下さい。お嬢様をお止めできなかった私が悪いのです」
明るい髪のメイド、ユリアが弱弱しい声で言う。
可憐な見た目は小動物を思わせるが、中身はハイエナのようにずるがしこくてあくどい女だった。
ブリュンヒルデが根性悪なのは間違いないのだが、それを増長させていたのはこのユリアだった。ブリュンヒルデの虚栄心や選民意識をくすぐり、彼女の横暴を止めるどころか煽り、その一方で、『お嬢様に振り回される可哀そうなアタクシ』を演出して主人に取り入るネタを作ったのだ。
ちなみに、今回ブリュンヒルデは下級貴族をぶったという理由で部屋に謹慎させられていた。もちろんそれは事実だったが、ユリアは止めるどころか「公爵令嬢たるブリュンヒルデさまの気分を害したあの女が悪いのです!」と援護までしていた。もちろん、それは公爵夫妻に言っていない。
非常にあくどい女だが、それだからこそ、ブリュンヒルデの側近が務まったともいえる。マトモな神経の人間なら、早々にブリュンヒルデの理不尽な命令に神経がボロ雑巾のように擦り切れていただろう。
なにしろ、今回の下級貴族への暴行を『当然の権利』とすら乙女ゲームのブリュンヒルデは考えているのだ。本来、ブリュンヒルデはここで父親に反抗して関係を余計に悪化させるのだが、腐女子魂の彼女は世界中の幸せを集めたような表情で父親に微笑んだ。
「あら、お父さま。お母さま、ごきげんよう」
その眩しい笑顔に公爵夫妻は目を丸くする。
問題行動ばかり起こすブリュンヒルデは、いつも公爵夫妻に食って掛かっては、理不尽な要求や眩暈がしそうな暴論を突き付けてくる。しかし、今はお日様のようにまばゆい笑顔で出迎えている。
娘の更生を願っていた二人は目頭が熱くなり、ディートリッヒは口をキュっと噛みしめ、公爵夫人のマルガレーテは顔を両手で覆った。
ブリュンヒルデは不思議そうに首を傾げた。
「お父さま、お母さま。どうなさったの?」
「い、いやその。ずいぶん変わったな……? いつもなら口答えをするというのに」
ディートリッヒが戸惑いながら尋ねるとブリュンヒルデは満面の笑みで答えた。
「もちろん反省しておりますわ!! わたくしの使命も忘れ、のうのうと生きていたことを深く反省しております。心を入れ替えて神の使徒としてこれから生きていく所存ですわ」
ブリュンヒルデの意味するところは、今までエミヴォルのことをすっかり忘れて生活していた己を反省し、生涯をエミヴォルに捧げる決意の表れである。転生しても腐った脳は健在だった。
しかし、そんなこととは知らないディートリッヒはやっと娘が心を入れ替えたと感心し、妻に笑いかけた。
「マルガレーテ、どうやらブリュンヒルデは今度こそ反省したようだぞ。まるで憑き物がとれたようだ」
「本当ですわ……本当に良かったですわ」
マルガレーテは緑の目からぽろぽろと涙を溢した。
ディートリッヒは妻の喜ぶ姿を満足そうに見つめ、ユリアに語り掛けた。
「ユリア、良かったな。もうブリュンヒルデに振り回されずに済むぞ!」
「え……ええ、それは……良かったですわ」
ユリアは曖昧に笑う。
(一体どうしたって言うの? この女が改心したら私が目立たなくなっちゃうじゃない!)
ブリュンヒルデを陥れることで公爵たちの気を引いていたユリアは彼女の変わり具合に危機感を抱いた。




