65 王太子殿下の手なずけ方
「シェラ……本当に、やるのか?」
日も落ち、ランプの明かりがひとつだけ灯る薄暗い廊下で、隣を歩く人の質問に答える。
「もちろんです」
彼は少し困ったような表情をしながら、再度問いかけた。
「本当に、こんなものでいいんだな?」
「はい」
期待に満ち溢れたシェラの顔に、ルディオは小さく溜め息をこぼす。
廊下の突き当たり、一番奥にある鉄格子のついた扉の前に到着すると、彼は真面目な顔で言う。
「いいか、絶対に約束は守るんだぞ?」
「分かっております」
「……あまり変なことはするなよ?」
「悪いようには致しません」
にこにこと微笑を絶やさないシェラに、ルディオは溜め息を追加して、小部屋へと一人で入る。
扉を閉めると、鉄格子の間から腕を伸ばし、慣れた手つきで外側に取り付けられている鍵をかけた。
一連の流れを見届けて、扉から数歩後ずさり、冷たい石の壁に寄りかかる。
鉄格子の向こう側を見つめながら、シェラは静かにその時を待った。
結婚披露式典から数週間後、もろもろの事後処理が済み、ようやく穏やかな日常が訪れた。
まだ全ての件が片付いた訳ではないが、これ以上はヴェータの出方次第なため、現状できることがなく保留状態となっている。
バルトハイルはまだ帰城したばかりの頃合いだろうし、連絡がくるまではしばらく掛かるだろう。
穏やかな日常とは言ったが、最近は本格的に王妃教育というものを始めたこともあり、それなりに忙しい日々を過ごしている。
毎日無理のない程度に授業をこなしていたシェラに、ルディオがとあることを尋ねてきた。
『シェラ、来月の君の誕生日なんだが、なにか欲しいものはあるか?』
『欲しいものですか?』
『ああ。希望があれば、先に聞いておこうと思ったんだが……』
そういえばもうそんな時期かと納得する。
特別欲しいものは思い浮かばないが、遠慮したところで逆に彼を困らせるだけだろう。
少し考えて、控えめに口を開いた。
『欲しいものというか……してみたいことならあります』
『なんだ?』
『ああでも……これはあなたに負担がかかるので……』
『私に? せっかくの誕生日なんだ、言うだけ言ってみるといい』
その言葉に甘えて、思い切って希望を口にした。
『獅子の姿のあなたに、ゆっくり触れてみたいです。式典の時はそれどころじゃなかったので……』
ルディオは一瞬呆けた顔をしてから、少しだけ嫌そうに眉を寄せて答える。
『…………分かった』
『いいのですか!?』
てっきり断られるだろうと思っていたので、思わず身を乗り出して問い返してしまった。
『……気は乗らないが、それが希望なんだろう?』
『はい』
『なら構わない。ただしいくつか約束事を決めるから、それは守ってくれ』
勢いよく首を縦に振って、了承の返事をする。
ルディオは獅子の姿になることを好まない。自我の消失を考えれば、当たり前のことだ。
だからこの願いは、胸の奥にひっそりとしまっておいたのだが、どうやら叶えてくれるらしい。
嬉しそうに口元を綻ばせるシェラに、彼は苦笑を滲ませた。
それから数日後、二人はこの小さな白い建物にやってきた。
時刻はもうすぐ真夜中を指す。
あまり早いうちに呪いを発動させると、長いこと獅子の姿でいなければならないため、この時間になった。
シェラの誕生日はもう少し先だが、彼の気が変わらないうちに実行してもらう。
……というのは建前で、本当はただ待ちきれなかっただけなのだが。
ルディオが扉の向こう側に消えてから数分、鉄格子の間から一瞬閃光がもれた。
これは呪いが発動した証拠。
恐る恐る扉に近づき、彼の合図を待った。
すぐにコツンッという、内側から扉を叩く音が聞こえる。
一回、二回、三回……
同じ音が五回繰り返されたことを確認してから、シェラは外側のカギに手をかけた。
これがルディオとのひとつめの約束。
自我が残らない可能性を考え、閃光が見えた直後に、扉をきっかり五回叩く。それ以下でも以上でも回数が合わない場合は、自我がないものと判断して、シェラはすぐに城に戻ることになっていた。
今はきっちり五回音が鳴ったので、願いは叶えてもらえそうだ。
鍵を外しゆっくり扉を開くと、目の前に大きな獅子が座っていた。
鮮やかな緑色の瞳が、どこか気まずそうにこちらを見ている。
黄金のようにキラキラと輝く立派なたてがみに目を奪われ、茫然と見つめていると、獅子がおもむろに立ち上がりシェラにすり寄ってきた。
「ふふ」
たてがみに指を通すと、ふわふわとした感触が手のひら全体を撫でる。
普段の彼の髪はまっすぐに伸びていて、どちらかというとサラサラとした手触りだが、今はとてもやわらかく思わず顔を埋めたくなるような気持ちよさだ。
首に腕を回すようにして大きく撫でていると、ゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
「気持ちがいいですか?」
彼は少しだけ驚いたように目を見開いてから、ぎこちなく視線を逸らす。今まで獅子の姿で人と触れ合ったことはほとんどないと言っていたため、己の状態に戸惑っているのだろう。
見た目は獰猛でも中身はただの大きな猫だなと、シェラはくすりと吐息をもらした。
さて、今日の目的はこれだけではない。
ポケットからある物を取り出し、彼の目の前に掲げる。
「ブラッシング、させていただきます」
シェラの右手には大きめのブラシが握られていた。
この日のために、ルーゼに頼んで用意してもらったのだ。何に使うかは聞かないが、結果は教えてほしいと楽しそうに笑って、彼女は手渡してくれた。
シェラの手の中にある物を見て、ルディオはあきらかに嫌そうな顔をする。
だがこれが誕生日プレゼントだと思い出したのか、観念するように床に伏せた。
「ふふふ」
たてがみから耳の裏側、尻尾の先まで全身くまなくブラシを通していく。
何とも言えない楽しさに、無意識に鼻歌がもれ出ていた。
満足いくまでブラシをかけ、ふと我に返り彼の顔を覗き込む。
目を閉じ、くうくうと静かに寝息を立てていた。
ずいぶんと静かだなと思っていたが、いつの間にか眠っていたらしい。
シェラは苦笑をもらしながら、一度部屋の外に出て、別の部屋に置いてあった毛布を運び込む。
これは王族がいつでも使えるように、常備されてるようだった。
もうすぐ初夏に差しかかる季節なため、気温はさほど低くはないが、念のために毛布をかける。
時刻は日付を越えた頃だが、もう少しだけ一緒にいたくて、寄り添うように彼の隣に寝転がった。たてがみに額を埋めてみると、心地よさに眠気が押しよせる。
「このまま寝たら……怒られてしまうかしら」
ルディオとのふたつめの約束。
それはひとしきり触れ合ったあとは、必ず城に戻ること。
彼自身は一晩をこの部屋で明かすが、シェラを石の床に寝かすわけにもいかないからと、自室に戻ることを約束させられた。
「怒られても……いいかも」
彼の信用を裏切ることになる。
そう思ったのは一瞬で、だんだんと思考がまどろんでいき、シェラはついに意識を手放した。
*
遠くで鳥の声が聞こえる。
同時にコツコツという、石の床を歩くような靴音が耳に入ってきた。
なんだろう……身体がふわふわと、上下に動いているような気がする。
一定間隔でそれを繰り返していると、急にまぶたの向こう側に眩しさを感じた。
「ん……」
重たいまぶたをこじ開けると、目の前には見慣れた美しい顔。
緑色の瞳が、鋭い目つきでシェラを見た。
「ルディオ、さま……?」
ぼんやりとした思考で名前を呼ぶと、彼は不機嫌さを含んだ声で答える。
「シェラ、約束を破ったな?」
「やく……そく? …………あ!」
思い至った答えに思わず声を上げる。どうやらあのまま朝まで眠ってしまったらしい。
自分の状態を確認すると、彼に横むきに抱えられていた。ちょうど白い建物から出たところのようで、顔を出したばかりの朝日が、二人をゆるく照らしている。
「目を覚ましたら、君が隣で寝ていたから驚いた。途中で寝てしまった私も悪いが、約束は約束だ」
ルディオとのみっつめの約束。
どれかひとつでも破ったら、お仕置きをする。
それが最後の約束。
「昨日は随分と可愛がってくれたからな、今日は私の番だ」
「……え?」
「部屋に戻ったら、何をされても文句は言うなよ?」
「こっこれからですか!?」
「あたりまえだ」
ルディオはにやりと笑って頷く。
「今日は午前中に授業がっ……!」
「もちろん中止だ」
そんな横暴な、と言いたくなったが、約束を破ったのはシェラの方である。
反論する余地もなく、脱力するように彼の腕の中に沈んだ。
「あの……痛いのは、いやです」
上目づかいで見つめると、彼はくすりと笑って言う。
「それでは仕置きにならないが?」
「うぅ……」
いたずらを仕掛ける子供のように、楽しそうな顔をしながら、彼は自室へと歩き始めた。
口ではああいっても、シェラが本当に嫌がることをしないのは知っている。
それにルディオになら、何をされても嬉しいと思ってしまう。
きっと嫌なことをされても、許してしまうだろう。
お仕置きという言葉に、何故か少しだけわくわくしているのだ。
でも、彼には絶対に教えてあげない。
これは、シェラの秘密。
主人公はドMだったというお話。




