45 冷たい床でみる夢
冷たい石の床に蹲りながら、シェラはひとり嗚咽をもらす。
薄暗い小さな部屋の中で、自分の泣き声だけが静かに反響していた。
ここは彼が呪いを発動させるために、夜を過ごす場所。あの小さな白い建物内の、傷跡だらけの部屋。
勢いで控え室を抜け出したものの行く場所のなかったシェラは、いつの間にかこの場所に来ていた。ここならきっと一人になれる、無意識のうちにそう思ったのかもしれない。
床に崩れるように座り込むと、自然と涙がこぼれた。
自分はいつの間に、こんなに泣き虫になったのだろう。
彼と会うまでは、涙なんてほとんど流した記憶はなかった。泣いたって誰も助けてはくれないし、常にニコニコ笑っているように大人からは言われていたから。
でも、ルディオに泣いていいんだと言われてからは、感情を表に出すようになった。
あの言葉が、全てのきっかけだったんだと思う。
彼は自身が表に出せない感情を抱えていると言うのに、ああ言ってくれた。あの時の言葉が彼にとってどれほどの意味を持つのか、今のシェラには分かってしまう。
ふと見上げた鉄格子のついた窓の外で、新緑の葉が揺れていた。
もうすぐ、春が終わる。
夏が過ぎて秋がくれば、それは彼と出会った季節。
せめてあの葉が枯れるころまでは、彼の隣にいたかった。そんなささやかな願いすら、ゆるされないらしい。
「今日ほど神様を恨んだことはないわ……」
この先どう生きていこうか。
以前ルディオがこの場所で言っていたように、形だけの夫婦として過ごす。それが最善だろう。
彼に触れられない自分に、女としての価値はない。ただヴェータの王女として、二国間の仲を取り持つ。
それだけが、唯一許された生きる道。
シェラがヴェータの王女である限りは、まだ利用価値はある。
「あれほど嫌だったこの立場に、救われる日がくるなんて……」
きっと聖女でなければ、彼と出会うこともなかった。
「……本当に、皮肉ね」
いっそわざと力を使いまくって、とっとと死んでしまおうか。
それもいいかもしれない。
彼には悪いが、少し疲れてしまった。
地べたに寝そべると、冷たい石の床が体温を奪っていく。
もし、この先の未来を視ることができたら――
すでにまともに力を使えるほどの体力は残っていないし、ここにはあの腕輪もない。視えたとしても、映像として認識できるかもわからない。
それでも、どうするべきか何かひとつでもわかれば……
急速に襲ってきた眠気に抗うこともなく、そのまま夢の中へと落ちていった。
ふと騒がしさを感じ、目を開ける。
眼前に広がる光景に、息をのんだ。
そこには、沢山の人の群れ。
みな高揚した表情で、壇上に上がった二人を見上げていた。
民衆の視線を一身に受けながら、混乱する頭で考える。
これは、なに……?
この映像は、未来? それとも、夢?
ただひとつ分かったのは、今視ているものが現実ではないこと。
何故なら、目の前で繰り広げられている光景に、全く身に覚えがなかったから。
ふと隣を見ると、大好きな人がいた。
金糸のようなさらさらな金髪を肩口でまとめ、鮮やかな緑の瞳は眼下へと向けられている。
観衆の声援に応えるように、優し気な表情で手を振っていた。
これはもしかして、一週間後に予定されている結婚披露宴式典だろうか。だとしたら、この映像は未来ということになる。
今の状況からは考えられないほど、彼は穏やかな表情を浮かべていた。
そして、シェラを見てほほ笑む。
促されるままに、戸惑いながらも手を振ると、歓声がより一層大きくなった。
その中で一瞬、奇妙な違和感を覚える。
身体が勝手に動き、彼の前に身を乗り出した。
どうしてそうしたのかは分からない。
でも、そうしなければいけないと思った。
まるでこの先に何が起きるかを……知っているかのように。
そのまま左胸のあたりに衝撃を受け、そこが火を噴いたように熱くなっていく。
痛みのような熱を感じながら、まぶたの重みに任せ目を閉じた。
熱いと思ったのは一瞬で、徐々に指先から冷たくなっていくのがわかった。
――寒い、な
ゆっくりと身体から熱が奪われていく。
――このまま、死ぬのかも
指先ひとつ動かせなくなったころ、なぜか頬に温かさを感じた。
そこから火が灯ったように、じわじわと全身に熱が巡り始める。
重たいまぶたを押し上げると、始めに見えたのは、白。見覚えのある、胸元。
これは彼が着ていた白いシャツの――
「――!?」
飛び起きるように顔を上げると、視線の先に男性的な凹凸のある喉元が見えた。
状況を理解しようと自分の身体を見下ろす。
冷たい石床の上にいたはずのシェラは、いつの間にか横向きの状態で、誰かの膝の上に乗せられていた。
剥き出しの肩には白い礼服がかけられている。
背中を支えるように回されていた男性の腕に、急に力が込められる。もう逃がさないと、両腕でシェラの身体を包み込んだ。
「ルディオ様……!」
この白い建物にいることは、すぐに知られるだろうとは思っていた。シェラが隠れられる場所など、限られている。
しかし、眠っている間にこの状態になっていることまでは予想していなかった。
シェラがルディオの命を奪っていることを、彼だって知ってしまったはずだ。それなのに、どうして彼の腕の中に……
早く離れなければともがいてみるも、腕の拘束が緩むことはなかった。
「わたしから早く離れてください!」
「嫌だ」
「どうして……! 知ってしまったのでしょう!?」
訴えかけるように緑の瞳を覗き込む。
焦燥感をあらわにするシェラとは対照的に、ルディオは落ち着いた声で答えた。
「そうだな」
「だったら……!」
逃げ出そうと暴れるシェラの細い手首を、ルディオが掴む。
「大丈夫だ。ほら、直接触れてはいない」
彼の手は白い手袋で覆われていた。
直接触れなければ生命力が流れ込むことはない。彼はそこまで知っているようだ。
己の手首を見つめながら動きを止めたシェラを見下ろして、諭すように彼が言う。
「シェラ、落ち着いて私の話を聞いてほしい」
控え室でも、彼は話がしたいと言っていた。きっと二人の今後についてだろう。
もう覚悟はできている。何を言われても、受け入れるつもりだ。
「……はい」
消え入りそうなほど小さな声で返事をし、彼の言葉を待った。
「始めに言わせてほしいことがある。反論は認めないから、最後まで何も言わずに聞くように」
俯きながらこくりと頷く。
静まり返った薄暗い部屋の中に、窓の外から聞こえる鳥のさえずりが、妙にうるさく響いた。




