追憶のイ・ブラセル 12
「サヤック! しっかりしろ、サヤック!!」
人の姿に変身したシャイードは、倒れたサヤックを抱き上げ、背中から翼を生やして飛んだ。妖精樹から一番近い泉へ向かう。
翼に穴が空いているため、空気が抜けてバランスが取りづらい。余計に羽ばたかなくては進まない。痛めた肋骨が軋むが、気にしてなどいられない。
サヤックの身体をかばって炎の壁を抜けると、燃えさしの森が煙を抱いていた。
必死に飛びながら腕の中に呼びかけるが返事はない。
到着した泉の周辺には、枝葉を失った木々が幽霊のように立ち尽くしていた。ここに炎はない。もはや燃えるものが残っていないからだ。
ただ、水辺の緑は濡れていたため、僅かに生き残っていた。
サヤックを横たえ、両手で水を掬って顔や身体に静かにかけていく。
「サヤック、目を覚ましてくれ、サヤック!」
すすけた頬を擦った後、軽く叩きながらシャイードは何度も友の名を呼んだ。
破れずに残っていた自身の衣服の破片を取り、泉につけて綺麗に洗う。そしてサヤックのひび割れた唇の上で絞った。
冷たい水が、彼の唇を潤す。
その時、ぼんやりと泉が光った。シャイードが見遣ると、水底から光精霊のフォスが浮かび上がってくるところだ。
「フォス! お前、そこにいたのか。大変なんだ、サヤックが……」
フォスはシャイードには近寄ろうとせず、泉の真ん中で半身を水に浸したままだ。
シャイードは不意に動きを止めた。瞼を、めいっぱい見開く。
「あ……。お、俺……、何をした……?」
嫌な予感が、足元からじわじわと浸食してくる。シャイードは改めて周囲の惨状を見回し、火傷だらけのサヤックに視線を落とした。
さらに距離を保ったままのフォスを見る。
シャイードの顔に、不自然な笑いが浮かんだ。唇からは乾いた笑みがこぼれる。彼は右手で喉を押さえた。
「そんな……、まさか。……嘘だろ?」
身体の芯に、さめやらぬ熱狂と高揚が残っている。脳裏には断片的な記憶が蘇ってきた。
そしてその断片から、破壊の風景が復元されていく。
何故、一時でも忘れられたのか。
信じられぬ思いで首を振る。だが間違いない。
「俺が、これをしたのか……?」
フォスを見て尋ねるが、光精霊は淡く光ったままだ。
本当は答えなど必要なかった。何よりも明確な記憶が、自分の中にある。
視線を落とす。
「俺が、サヤックを……?」
シャイードは頭を抱えて蹲った。
取り返しのつかないことをしてしまった。人間だけではない。大切な仲間である妖精たちまで殺してしまった。森を破壊してしまった。
そしてなにより、大切な友を。
「俺……お、俺が……」
殺してしまった!
「あ……あ、ぁ……ぁああ……っ!」
シャイードは悲痛な叫びを上げた。
嘘だと思いたい。悪い夢だと思いたい。目を閉じれば、風景は消え失せる。しかし、焦げた木々の匂いは、鼻先にまとわりついて消えない。
耳に聞こえるはずの鳥の鳴き声も、何一つ聞こえない。
肌に感じる熱気も、足元から浸透してくる温度も、彼が自分から逃げることを許さなかった。
取り返しのつかないことをしてしまった。
シャイードはサヤックの胸に頭を投げ出し、慟哭した。
涙が、次から次へと溢れてくる。
泣いたのはいつ以来か忘れたが、これほど涙を流すのは初めてだ。
サヤックだけではない。師匠の死やイレモノの死、敵の死、妖精たちの死、森の死……。全ての死が一斉に、シャイードの心にのしかかってきた。
シャイードは生まれて初めて、死の重さを背負った。
それは、たったひとつですら、とても重い。
彼は知らなかった。同時に、彼はずっと昔から知っていた。
母や弟たちの死が、どれほど自分に憎しみを植え付けたか、知っていた。それすらも、死の重みだ。
知っていたのに、知らなかった。
愚かにも、逆の立場になればさらに重みが増すことを、想像できなかったのだ。
「なか……ないで……」
シャイードは後頭部に、何かが触れるのを感じて顔を跳ね上げた。
声の主はサヤックだ。うっすらと開いた瞼の間から、海色の瞳がのぞいている。
「サヤック!!」
シャイードは空に持ち上がっていた彼の火傷だらけの手を、両手で捕まえた。
「お前、生きていたのか! 良かった、俺、てっきり……」
「シャイ……なく、から……、おちおち、寝てられない、ね」
「泣いてねぇよ!」
シャイードはサヤックの手を離し、慌てて涙を拭う。死の重みが一つ除かれただけで、驚くほど気持ちが上向いた。安堵の余り、顔には笑みさえも浮かんだ。
サヤックも微笑みを返してくれて、シャイードはさらに安心する。
「待ってろ、今、塔に」
塔に運んで手当をしようと考えてから、破壊されてしまったことを思い出す。師匠が集めた火傷に効く薬草も、回復薬も、瓦礫の下だろう。見つけるのは難しい。
次には治癒の得意な妖精が思い浮かぶが、それすらも殺してしまった。
シャイードの呼吸が速くなる。サヤックは重傷だ。折角生き残ったというのに、シャイードには彼を手当てする術がない。
「考えろ。何か、何か手があるはずだ!」
額に左手の甲を当て、頭をフル回転させる。
薬草の生息地も焼けてしまった。
シャイードには癒やしの力はない。フォスにも、サヤックにも。
兵士たちも殺してしまった。治療薬があるかも知れない野営地や船も燃やした。
――駄目だ! どうにも出来ない。
そうしている間にも、サヤックは確実に死に近づいている。息が苦しそうなのは、肺が焼けてしまったからだろう。
サヤックはシャイードの絶望を見て取り、その腕に手を添えた。シャイードは怯えを含んだ金の瞳で、横たわる友を見下ろす。
「ボクまで……んだら、シャ……ド、壊れ…ゃう。それ、だけは」
「お前、何言って……」
「シャイード。目を、」
「え?」
「ボク、の、目」
サヤックは肺から空気を押し出すようにして、かろうじて発音した。
シャイードは訳も分からずに、サヤックの言葉に従って彼の目を覗き込む。
明るい海色の瞳は穏やかで、彼が死の淵にあることなど感じさせなかった。
シャイードは不思議な安らぎに包まれる。
◇
「わー! また負けちゃった!」
「ふふん」
シャイードは勝負のついたチェリカの盤面から顔を上げ、勝ち誇った表情でサヤックを見下ろした。
今日のシャイードは調子が良く、先ほどからサヤックに三連勝している。サヤックは唇をとがらせ、盤面からコマを取り除いた。
「もーやめ! 今日はやめる」
「お前、負け逃げで良いのかよ?」
シャイードは口端を持ち上げて挑発する。
「いいんだよ! 駄目なときにムキになると、余計に駄目になるんだから」
サヤックは鼻息も荒く答えた。二人の勝負を見守っていた妖精たちも、思い思いに散っていく。盤面に残っていたコマが、コトンと音を立てて倒れた。
ここは妖精樹の広場だ。キノコの椅子に座りながら、シャイードはサヤックとチェリカをしていた。気づけば辺りはもう暗い。
シャイードは妖精樹の梢越しに、空を見上げた。
「俺、もう塔に帰っても平気かな?」
「サレムは良いって言うまでここにいろって言ってたんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ、今晩は泊まっていけば良いよ! ボク、ご飯作ってあげる」
「ええー? お前の飯、なんか草っぽい味だからなぁ……」
「失礼だな! シャイードは!!」
サヤックが肩を怒らせて怒る様子を見て、シャイードはからからと笑った。
いつも通りの、楽しい一日だ。
(嘘だ)
風景に、ザザッと雑音が入る。
「………。ねぇ、シャイード?」
サヤックがキノコの椅子の上で、足をぶらぶらさせながら下を向いている。
「んー?」
シャイードはテーブルに頬杖を突いて、彼の横顔を眺めた。広場が先ほどよりも静かになった。妖精たちが減っていた。それぞれのねぐらに帰っていったのかも知れない。
「今まで、ありがとね」
「なんだよ、改まって」
サヤックの表情がよく分からない。シャイードは怪訝そうに目を細める。何か、胸の中に嫌な予感が渦巻いていた。
「ボク、シャイードと会えて、楽しかったよ。へへ。喧嘩もいっぱいしたけどさ。大体シャイードが悪かったよね!」
「はあっ!? そんなこと、………。まぁ、なくもない、か?」
「まったくもう、だよ、ほんと! それでも、楽しかったんだ。だから、ありがと!」
「………」
シャイードは視線を逸らした。テーブルの端を、テントウムシが歩いている。
何かが心に引っかかっていた。
「ボクね、シャイードの夢がいつか叶うように、いつも願ってるからね。シャイードは簡単に諦めちゃ駄目なんだよ」
「俺の、……夢?」
シャイードは何のことか分からず、瞬く。夢なんてあっただろうか。それをサヤックに話したことなんて?
テントウムシはのこのこと歩いている。
サヤックがシャイードの方を振り向いた。彼は「ちょっとちょっとー!」と眉をつり上げる。
「そんな大事なこと、忘れないでよ。ニンゲンの友達でしょー!?」
「い、いや。俺はそんなの、別に」
「ボクに隠さなくても良いから。ともかく! サレムの話は忘れちゃ駄目。シャイードなら出来るよ」
「お、おう……?」
シャイードは頭の上に「?」を沢山並べながらも頷いた。
サヤックの話がまた、支離滅裂になっている。いつものことだと思いながらも視線を落とすと、サヤックの手の中にガラス玉があった。ガラス玉からはサレムの声がしている。
「もう塔に戻っても良いのか?」
シャイードの問いかけは、サヤックには聞こえなかったらしい。
サヤックはガラス玉を見つめ、申し訳なさそうな顔をしている。
「サレム。約束……、最後の最後で破っちゃうけど、これはセーフだよね? ボク、もうほとんど条件満たしてるもんね?」
ガラス玉の中のサレムが何かを言ったようだが、シャイードには聞こえなかった。サヤックは顔を上げてシャイードをまっすぐに見つめた。
「いいんだ。嫌なことと、それにつながる記憶は全部『忘れて』シャイード」
「えっ?」
一陣の風が吹いた。
風はシャイードの身体を通り抜けて、木々を揺らし、どこか彼方へと吹き抜けていった。
シャイードは、身体が軽くなったように感じる。
サヤックはテーブルの上のテントウムシを指に乗せた。テントウムシは、サヤックの手の中で、より高い場所を求めて歩いていく。
「ボク、今日はまた一つ、君のことを知れて良かったよ」
「? 何のことだ?」
サヤックは指を天に向かって立てた。テントウムシはそれを上っていく。
「キミってすごく、強いんだなってこと!! だから、キミなら大丈夫。大丈夫だよ、きっと。次はもう負けないよ!」
いつの間にか、サヤックは立ち上がっていた。
広場からは、妖精がいなくなっている。サヤックだけだ。
「みんな、どこへ……」
「ボクもそろそろ行くね」
「行くって……、どこに行くんだ、サヤック?」
サヤックは答えず、テントウムシを見つめていた。
その指の先で、テントウムシが羽を広げる。そして飛び立った。
シャイードはそれを目で追う。
まっすぐに空へと吸い込まれて見えなくなるテントウムシ。それを中心に、風景がぼんやりと白くかすんでいった。
慌てて視線を戻すが、隣にいたはずのサヤックの姿はない。
「……サヤック? おい、サヤック!!」
『元気でね。またいつか、君に会えると良いな』
最後に友の言葉が脳裏に響き、シャイードは意識を失った。




