追憶のイ・ブラセル 11
破壊の足音が近づく妖精樹の広場に、数人の兵士が逃げこんでいた。助けてくれ、と懇願する人間を、妖精たちはどう扱えばいいのか分からずに戸惑う。
イ・ブラセルの妖精は、人間をよく知らない。
島の南で何が行われたのかも知らない。
ただ、シャイードが怒っていることと、彼を怒らせたのが人間であることは、おぼろげながら察せられた。
妖精たちは顔を見合わせる。
「シャイードに謝って? あたしたち、どうにも出来ない」
羽妖精が勇気を出して語りかけるが、妖精の言葉が分からぬ兵士たちはただ、首を振っておびえた視線を見交わすだけだ。
「どうしよう」
「あんなに怒ったシャイード、見たことない。わかんない」
「サヤックは?」
「さっき、海に向かって走っていくのを見たけど、その後は……」
広場の周りの木が、派手な音を立てて空を飛ぶ。瞳を憎しみと破壊への愉悦に燃え立たせた黒竜の姿が、樹上に現れた。
妖精も人間も、一斉にそちらを向く。
「シャイード!」
「ひぁっ……、ぁあ……、あああぁあ……っ」
「もうだめだ、もうだめだ、もうだめだ」
恐慌状態に陥った人間たちは、妖精樹の階段を駆け上がり、虚の中に身を隠した。巨木は妖精たちの住み処であり、彼らが遊ぶ迷路でもある。虚と虚とは内部で繋がっていた。
シャイードは広場へと足を踏み入れ、鼻をならして匂いを嗅ぐ。人間の匂いをかぎつけたのか、妖精樹に向けて頭を巡らせた。そちらへ歩み寄っていく。
皆で仲良く語らったきのこのテーブルや椅子も、ひと踏みで破壊された。ふかふかの草の絨毯は黒く鋭い足の爪に抉られる。
シャイードは巨大な妖精樹をにらみつけた。その眼前に、羽妖精が二人、飛び込んでくる。
「だめ! 止めて、シャイード!」
「妖精樹が倒れたら、私たち、ここにいられな……、きゃあ!!」
言葉が届かないのか、シャイードはハエを追うような仕草で妖精をたたき落とした。
低く唸り、隠れた人間の姿を探す。彼は妖精樹の太い枝に前脚をかけ、幹を揺らした。人間たちが悲鳴を上げると、シャイードは口を薄く開いて笑う。
「憎しみに囚われて我を忘れたな。こうなったら、力尽くで止めるしかなかろう」
枯れ葉の服を着た年長の地妖精がトネリコの杖を掲げる。頭に大きな花を咲かせた樹妖精は頷き、共に魔力を解き放った。
地面から草の蔓が幾つも芽吹き、急速に成長してシャイードの下半身に絡みついていく。
シャイードはいらだたしげに両脚を動かして蔦を引きちぎるが、切れた蔦の先から新たな蔦が生えて彼の身体の自由を奪った。
両腕までも縛められ、シャイードは頭を振り、身をよじって束縛から逃れようとする。さらにその上から、蔦が巻き付いて、暴れるドラゴンを完全に押さえ込もうとした。
ところが。
順調にいくかと思えた蔦の動きが、急速に鈍る。
地妖精と樹妖精は共に、がくりと膝を折ってしまった。
「もうだめ……」
「ぐぬぅ、魔力が足りん」
先ほど、島の南へと流れた魔力が、未だに回復していない。
カーバンクルのいた場所までは距離があったため、この周辺の魔力量はゼロではなかったが、いつもよりもずっと、大気中の魔力の濃度が薄かった。
身体に蓄えられていた魔力が尽きてしまうと、それ以上、このような大魔法を維持できなくなってしまう。
シャイードは増殖を止めた蔦に噛みつき、凶悪な牙で引きちぎった。
身体が自由になったシャイードは、邪魔をした妖精たちを睨み、彼らに向かって躊躇なく炎を吐き出す。
高温の炎はあっという間に広場を飲み込み、妖精樹もまた例外ではなかった。
サヤックが炎に追われ、破壊された木々を超えて広場にたどり着いたときには、妖精樹は大きな炎の渦に飲まれていた。熱風が吹きだし、燃えた葉の破片が飛んでくる。
熱い。それに酸素が薄く、とても息苦しかった。
シャイードは燃え立つ大樹の前で、黒い影になって見えた。どこもかしこも燃えていて、それ以上は近づけない。
「シャイードぉ!!」
サヤックは大声で、友の名を呼ぶ。
焼けた地面を踏んで来た蹄が痛い。既にサヤックは体中に小さなやけどを幾つも負っていた。
「シャイードおぉおお!!!」
彼は炎の中のドラゴンに向け、さらに大きな声でその名を呼ぶ。
黒竜はゆっくりと振り返った。その表情は炎の影になり、全く分からない。
「ボクだよ! サヤックだよ!! わかる?」
直後、熱風が横から吹き込み、サヤックは顔を腕でかばって咽せる。肺が焼けて、息が苦しい。
シャイードは返事をしなかった。ただ、じっとこちらを見ている気配はする。
「ゲホッ……、はぁはぁ。シャイード! もう止めて。こっちに戻ってきて、シャイ……」
途中で、声が出なくなった。喉がひりひりとして、サヤックは片手を添えた。水が欲しい。水が飲みたい。
シャイードは炎の中に呆然と立ち尽くしているように見える。
言葉は届いているのだろうか。
サヤックは肩掛け鞄からお気に入りの笛を取り出し、唇に当てた。
シャイードが落ち込んだとき、聴かせた曲を吹き始める。
明るくて楽しい曲。
つい口元に微笑みが浮かんでしまうような、身体のどこかが勝手に動き出してしまいそうな、この場にそぐわない曲を、サヤックは吹いた。
焼けて痛む蹄を踏みならし、踊りながら必死で演奏する。
どうかシャイードの心に届いて、どうかいつものシャイードに戻って、と。サヤックは大好きな音楽の力を信じた。
例え言葉が通じなくても、心を通じさせることが出来る。それが音楽の持つ魔法だ。
サヤックはいつの間にか、熱さも苦しさも感じなくなっていた。大切な友のため、ただ笛を吹くことに集中した。
◇
狂乱する黒竜の中で過去をのぞいていたシャイードは、蹲った姿勢から顔を上げた。
思考を塗りつぶしていた黒い感情の騒音が、いつの間にか衰えている。過去のシャイードの心から駆逐されていく。
一時は言葉をなくすほど自分を見失っていた黒竜のシャイードが、必死に憎しみを抑え込もうとしていた。
(何があった?)
意識を外に向けると、サヤックが笛を吹いているのが見えた。
聞き覚えのある曲だ。しかし、そんなことよりも、サヤックの様子が気にかかる。
彼は炎に炙られながらも、笛を吹き続けているのだ。
(サヤック!)
大丈夫なのか? サヤックは、炎が平気なのだろうか。
そう思った矢先、曲は急に弱り、サヤックは倒れた。
シャイードは不意に、この先を知っているという確信めいた予感を覚える。今まではどこか他人事のように眺めていた記憶が、自分の記憶に統合されようとしている。
(い、いやだ……! 知りたくない!! 思い出したくない!)
視界が急速に低くなる。
シャイードの願いとは裏腹に、外側ではドラゴンの姿から人の姿に変じた記憶のシャイードが、サヤックに向かって走り込んでいくところだった。




