追憶のイ・ブラセル 10
(もう止めてくれ!)
と、記憶のシャイードの中で、シャイードは両目を覆った。初めて人を殺した感触が、生々しく拳に蘇っている。まるで覚えていない。でも確かに自分が”それ”を”した”のだと直感が告げた。
悪行とは思わない。
むしろ清々している。
そうだ、それでいい。これこそが本来の自分だ。
一方で彼は、”師が命がけで守ったものを壊した”という全く別の罪悪感を覚えていた。
さらに心の別の場所では、そうとしか罪悪感を覚えない自分に戦慄した。
(結局のところ、俺が殺してこなかったのはサレムにそう言われたから……、ただそれだけなのかも知れない。俺の本性は獣で、何かを殺めることを厭わない)
(それの何がいけない? グレッセンは悪だった。死んでしかるべきニンゲンだった)
(それを、俺が決めるのか? 俺が奴の全てを知っていたのか?)
自分の意識が幾重にも重なり、一つの事柄を正当化も非難もする。
納得する自分、後悔する自分、うちひしがれる自分、喜びを覚える自分。心が、不協和音にきしむ。ばらばらに砕けてしまいそうだ。
シャイードは苦しげに唇を噛んだ。
(正しい選択って、何なんだよ、サレム!)
黒竜の中では、くろぐろとした憎悪の感情が暴れている。本能は理性を圧倒し、彼に破壊を実現する力を与えていた。
その圧倒的な存在感に、傍観者であるシャイードまで塗りつぶされてしまうのではないかと危惧する。
シャイードは目を瞑り、耳をふさいで蹲った。狂乱の嵐が過ぎ去るまで、出来ることは何もない。
過ぎ去った出来事を変えることは、誰にも出来ないのだ。
◇
怒り狂う黒竜と化したシャイードは、逃げた人間たちを追い、襲いかかった。
乗ってきた船ほどにも大きなドラゴンの姿に、叫び声に、兵士たちは一人残らず恐慌状態に陥る。ある者は海岸へと逃げ、ある者は森へと逃げこんだ。
移乗用の小舟は奪い合いになり、乗り損ねた者は海を泳いで船へと急ぐ。その船はと言えば、仲間の到着を待たずに沖へと出て行こうとしていた。
『させるか!』
真の姿を見た人間は、全て殺さなくてはならない。
そうでなければ人間たちは、さらなる大軍勢を引き連れて戻り、シャイードを苛むだろう。シャイードが死ぬまで、それは終わらない。
こうなってしまった以上、もはや引き返すことは出来なかった。
そう、これはやはり、正しい選択なのだ。
黒竜は翼を打って飛び上がる。巻き起こる爆風に、畑の畝や柵は吹き飛び、木々は横倒しになった。
海へ向かって飛ぶ。シャイードの羽ばたきが、穏やかな海面に大きなうねりを作り出し、船を揺らした。
船上に残っていた者たちも、全員が恐慌状態に陥る。
黒竜の姿が迫ると、自ら海へと飛び込む者もいた。しかしそれすらも出来ず、甲板にへたり込む者の方が多い。
シャイードは大きく息を吸い込み、口を開き、人間たちへの巨大な憎しみを吐き出した。
とても心地が良い。
力が、身体の奥底から湧き起こってくるのだ。
全てを支配下に置き、全てを意のままに出来る力が、自分にはある。
その万能感に酔いしれる。
船は炎の一吹きで、巨大な松明と化した。
次に彼は、森へと向かった。
野営地近くにさしかかったとき、風切り音が身体をかすめる。
『ぐっ……!?』
右の翼の皮膜を打ち抜かれた。穴から空気が漏れ、身体のバランスが狂う。
シャイードはやむを得ず、森へと降り立った。木々が足元で悲鳴を上げて倒れていく。
金の瞳で見下ろすと、野営地でバリスタをこちらに向けている人間たちが眼に入った。
決死の覚悟で放たれた第二射は、胸に届く手前で打ち払う。
『こざかしい』
シャイードは炎の息を吹きかけ、バリスタを野営地ごと焼き払った。
炎を吐き出すほどに、破壊するたびに、一人殺すごとに、シャイードは自身が強くなり、力を取り戻していくのを感じた。
矮小な枠に嵌められ、窮屈な生を送っていた己が愚かに思える。自由だ。自分を縛るものは何もない。自分に命令できる者は誰もいない。力ある者は、思うままに生きて良いのだ。
シャイードは愉悦を浮かべ、逃げた人間たちを追った。
◇
森の中は大騒ぎだった。
最初の異変は、大量の魔力が島の南に流れて失われ、妖精郷を隠蔽する魔法が失われてしまったことだ。
その後、まばゆい光が何度か輝き、森の南端で火事が発生した。消火に向かった妖精たちはそこで、逃げてくる人間と海へ向かうドラゴンを目撃していた。
「大変だ……!」
「サヤックに知らせなくちゃ」
別の場所で消火活動に当たっていたサヤックの耳にも、ドラゴンの姿に戻ったシャイードの咆哮は届いた。
彼は立ち止まって大きな耳を澄ませる。
「………。そんな……」
呟き、バケツを捨てて海へと走り出した。
◇
『まだだ。まだ、ニンゲンは隠れているはずだ』
シャイードは燃える野営地を踏み越え、木々を両手で打ち払いながら森の奥へと向かう。
『どこだ? どこにいる、ニンゲンどもめ。殺さなくては。一人残らず、消し去らなくては』
金の瞳を憎しみに燃え立たせ、シャイードは人間の姿を探した。
妖精郷に近づくと、妖精たちが姿を現し、シャイードを止めようとした。だが、今のシャイードには、妖精の言葉が届かない。
見知った妖精の姿が目に入っても、邪魔な羽虫程度にしか感じられなくなっていた。
『どけ! 邪魔だ!』
シャイードは軽く炎を吹きかける。脅しのつもりだったが、妖精たちは瞬時に燃え尽き、姿が見えなくなった。
シャイードは何の感慨も覚えず、憎き人間の姿を求めて森の破壊を続ける。
◇
サヤックが海へ到着したと同時に、引き返してきたシャイードが頭上を飛んで通過した。
「シャイードぉぉお!!」
口の両側に手を立て、大きな声で彼の名を呼ぶ。しかし、シャイードは気づかずにそのまま飛び、直後、大きな矢で翼を貫かれた。
「シャイード!!」
サヤックは、まるで自分が撃たれたかのように悲鳴を上げ、森に降り立つシャイードの後を追う。
野営地にたどり着いたときには、辺りは火の海だった。シャイードの姿は既にない。
サヤックは目を見開いて震え、その場に頽れる。
「なんてことだ……。シャイードが、シャイードがこんな……」
海色の大きな瞳に涙が膜を張っていく。
シャイードの心の中に、人間への憎しみがあることは知っていた。けれど彼は自分で、それを上手くコントロールしていたはずだ。
森に火事を呼ぶたき火の燃えさしも、丁寧に土に埋めれば、やがて森を育てる存在になる。
ところが彼の憎しみは、土の中でも消えることなくくすぶり続けていた。何かが引き金となり、再び燃え上がってしまったらしい。
サヤックは友の心を癒すことが出来なかった現実を、目の前の大火に見た。
「ボクの、せいだ……」
次から次へと涙が溢れ、景色を歪める。
「ボクがもっと、シャイードの憎しみを理解していたら。もっと、話を聞いていたら。もっと、何かを与えられていたら」
拭っても拭っても溢れる涙を、慟哭が追う。そうしている間にも、木々は憎しみの炎にくべられていく。
サヤックは鼻をすすり、唇をへの字にして顔を上げた。
「涙じゃ火は消えない。ボクがキミを止めなくちゃ!」
フォーンの少年は立ち上がり、自慢の蹄で地を蹴る。自分を見失った友の背中を追って。




