看板娘の冒険
時間は少し巻き戻る。
夜明け前の最も暗い時刻。アイシャはベッドから起き出した。
弱く灯したランタンの明かりを頼りに、着替えと準備を済ませる。
エプロンドレスの上にはケープを羽織り、靴は丈夫な編み上げブーツに履き替えた。
大きなバスケットを腕に下げ、ランタンを手にして、扉をそっと開く。
廊下は静まりかえっている。
宿泊客たちも、今は最も深い眠りの底にいるのだろう。
アイシャは生まれて初めての冒険に、気分が高揚していた。
厨房へ行き、サンドイッチやビスケットなどの食料と水袋をバスケットにつめて酒場のフロアへ行く。
外へ出ようとして、戦斧の存在を思い出した。
(あっ、そういえば、魔物も出るんだよね。何か武器があった方が良いかも)
きびすを返し、バスケットとランタンを置く。壁の高い位置に固定して飾られている斧を、テーブルの上に乗って取り外した。
掃除をするのに何度も手に取ったことはあるが、使う意思で触るのはこれが初めてだ。
長さは床にまっすぐ立ててアイシャの胸の辺りまで。
幅広の刃が蝶の羽のように左右対称についている。
店主が現役時代に愛用したもので、所々に激しい戦闘を思わせる傷がついていた。
柄は木と金属の組み合わせで、木製部分は真新しい。飾り斧の用途にする際に、店主が新調したのだ。
盾も飾られていたが、バスケットもあるので持つことが出来ない。
(斧だけでも結構重たいし、盾はいいか)
武器を手にテーブルから降りる。
伐採に使用される斧とは明らかに趣の違う斧を見て、アイシャは眉根を寄せた。
(これをそのまま持って町を歩くのは、ちょっと物騒だよね)
バスケットを開き、中からスカーフを取り出す。そして刃物部分を包んだ。
そうすると、一見農具のように見える。重さもさほど変わらない。
アイシャはできばえに満足し、冒険へと一歩踏み出した。
町の門は、夜の間は閉ざされている。
けれど、町を取り巻く森や畑や森の外の放牧地に仕事がある人々は、夜明け前に門を出る。
目立たぬ路地で少し待っていると、家畜や台車を引いた人や農具を手にした人たちがやってきて、門が開かれた。
空が明るんで来たため、アイシャはランタンをバスケットにしまい、列に紛れて門を通過する。
外からやってくる者と違い、中から外へ出て行く町人がいちいちチェックされることはない。
尤もこの町では、外からやってくる者さえ、ろくにチェックはされていないのが現状だ。なにせ急拡大中の町なのである。
見上げると、櫓の上の門番も眠そうに大あくびをしていた。
門の外の野営地を抜け、三々五々、分かれていく人の波と離れ、アイシャは遺跡の方角へ向かう。
町なかの通路は土がむき出しなのに、遺跡に近づくにつれて石畳が顔を出すのが不思議だ。
(昔の人の方が、お金持ちだったのかな)
そんな感想を抱きながら森に入っていく。
開けた場所は夜明け前の薄明かりでも問題なく歩くことが出来たが、森の中に入ると曙光も届かず、まだ少し暗い。
再びランタンを灯すかどうするか、迷い始めた頃、先の方が明るいことに気づいた。
(なんだろう?)
やや早足で、明かりの方に向かっていく。まもなく、バリケードが見えてきた。
アイシャは反射的に木の後ろに隠れて様子をうかがう。
バリケードのそばでは、黒いローブを着た二人組が椅子に座り、雑談に興じていた。
距離があることもあり、気づかれなかったようだ。
黒ローブ姿の二人組は、身振り手振りをしながら会話し、時々笑い声をたてている。
リラックスした雰囲気だ。
(もしかして、ここで引き上げ屋の鑑札をチェックしてるのかな? 困ったな、どうしよ……。ここからは入れなそう)
平素はここにバリケードなどは設置されていない。
遺跡が封鎖されていることを知らないアイシャは、思わぬ事態に戸惑った。
町から遺跡までは、何の邪魔もなくすんなり通れると思っていたのだ。
(森を迂回したら、遺跡にたどり着くかな?)
アイシャは森と町を見比べる。
(ちょっとだけ。ちょっと見て、すぐに帰るから)
誰にともなく言い訳し、彼女は木々の中へと分け入った。
◇
一方、シャイードが同じ場所に立ったときには、夜が明けていた。
町の門を出た後、彼はずっと下を見て歩いた。むき出しの土の上には、幾人もの靴跡や轍の跡、家畜の足跡があった。
それらは右へ左へ分かれて次第に数を減じ、最終的には一人の足跡だけが遺跡への道をたどっていた。
大きさと歩幅から、アイシャのものとみて間違いなさそうだ。
ところが、遺跡に近づくと道が石畳となっていまい、足跡が追えなくなってしまった。
帰りの足跡がなかったことから、彼女は遺跡に進んだとみるのが適当だろう。
彼はまっすぐにバリケードへ向かう。
バリケードの両端に一人ずつ、見張りが座っていた。
どちらも黒いローブを着ていて、片方は本を読んでいる。もう片方は腕組みをして眠っているように見えた。
近づいていくと、意外にも眠っていると思えた方が先に気づいた。
彼はその場で椅子から立ち上がる。もう一人の見張りも、本から顔を上げてシャイードを見た。
敵意がないことを示すように、シャイードはマントの前を開き、両手を挙げてゆっくりと近づく。
距離を充分に保ったところで立ち止まった。
「学術調査隊の人か?」
「ああ、そうだ。……お前は?」
「引き上げ屋のシャイードだ。――ああ、待ってくれ。遺跡が封鎖中なのは知っている」
立っている見張りは言おうとしたことを先に言われ、出鼻をくじかれた。
「それなら何しに来た」
「人を探してる。俺より前に、ここに女の子が来なかったか? 歳は15。髪は明るいオレンジ色で、瞳は薄緑だ」
「知らないな。俺たちはさっき見張りを替わったばかりなんだ。前任者は寝てる」
彼は親指を立て、自らの背後を示した。遺跡の方角だ。
「その女の子とやらも、引き上げ屋なのかな。ギルドから連絡は行っていなかったのかい?」
本を読んでいた方が、幾分柔らかな口調で座ったまま口を挟んできた。
「いいや。彼女は酒場の給仕だ」
シャイードが答えると、質問者は面食らったようだ。もう一人と顔を見合わせた後、シャイードに向き直る。
「事情はよく分からないが、前任者から特に異常はなかったと聞いているよ。ここを通った者もいないはずだ。他を当たった方が良いだろうな」
「なるほど。だがその前に、少し中を確認させて貰うことは出来ないか?」
「俺たちを疑ってるのか!?」
立っている方が息巻くが、座っている方に片手で制止された。
「……申し訳ないがそれは出来ないんだ。詳しい事情は言えないけど、調査に差し障りがあるから」
シャイードは座っている見張りを見つめ、それから立っている方に視線を流した。
彼は仁王立ちしており、腕ずくでも通さない強い意思を感じる。
「……わかった。他を当たるとする。情報に感謝する」
「すまないな。探し人が無事見つかることを祈っている」
シャイードはマントの下に両手をしまい、きびすを返した。
背後に視線を感じる。
姿が見えなくなるまでは、監視されるだろう。
やむを得ず、一旦森の入り口まで戻る。
しゃがみこみ、再び地面を確認した。
遺跡へ向かうアイシャの足跡、それに先ほど自分が記した足跡。
(……森を抜けて迂回しようとした、か)
一番面倒なパターンになってしまった。
それに、遺跡の周囲にこそ少ないとは言え、森の奥にはどう猛な獣や巨大昆虫などの魔物も生息している。
シャイードは立ち上がり、両手を腰に当てて左右の森を見渡した。
「さて……、どうしたものか」