追憶のイ・ブラセル 6
(こんな会話も記憶にない……)
シャイードの中のシャイードは、苦しげに目を閉じた。
覚えていれば。帝国などに関わらなければ。もっと気をつけていれば。
今更ながらに後悔が胸に押し寄せたが、例え覚えていたとしても、結果は同じだったように思う。
シャイードはクルルカンの遺跡で師の遺産を探しただろうし、襲われる帝国兵を見捨てることも、皆殺しにすることも出来なかっただろう。
それは育ててくれたサレムに対する裏切りに他ならない。
師は人とドラゴンの歴史を教えた上で、過去を憎むより、未来を開けと言ったのだ。
もちろん、感情としては、今も納得できていない。
きっと一生、納得することは出来ないだろう。
(そもそも俺の正体をバラしたのってアルマの阿呆だしな! あんな風に唐突に暴露されるなんて、予想がつくか!)
荒々しく息をつき、過ぎし日の自分に意識を引き戻す。
◇
シャイードは翌日、再び人間の野営地へと様子を見に来ていた。今回は単独行動だ。
昨日は正体が分からなかった、大きな工作物を確認するためで、師匠の部屋から望遠鏡を持ち出してきていた。愛用の短刀も腰に佩いている。
昨日身を潜めた場所は奴隷の娘に知られてしまっているので、今日は別の木に登っている。
「チッ。人が多すぎるな……」
シートをかけられた物体の周囲には遮蔽物もなく、誰にも見つからずに近づくのはやはり難しい。
だが好機は意外にも、すぐに訪れることとなる。
観察を続ける内、野営地に動きがあったのだ。
人間たちが揃って海岸方向へと出かけていく。野営地にも人が残されたが、シャイードが見たところ二人だけだ。
その二人は、最初の頃こそ油断なく周囲に視線を配っていたが、やがて立ち話を始めた。
位置は工作物の近くだが、二人の位置が近いため、反対側からなら気づかれずに近づくことが出来そうだ。
「……よし。今なら」
出かけていった者たちが、いつ戻ってくるとも知れない。
シャイードは望遠鏡を畳んでベルトに挟むと、迅速に行動を開始した。
陰に潜む走り方で広場の縁にある灌木まで移動する。
そこから工作物までは、遮蔽のない広場を突っ切らなくてはならないが、人間は工作物の反対側で、互いに死角になっていた。
シャイードは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
緊張が心地よい。
思えばこんな緊張は、初めてだったかも知れない。
シャイードは音もなく茂みから広場へと足を踏み出し、腰を低くして一気に走った。
シートのかけられた物体までは、あっけないほど簡単に近づくことが出来た。
人間たちは会話に興じていて、時折冗談を言っては笑い合っている。
近くで見てみると、シートの下に車輪らしき物が見えた。しかし四輪ではないようで、手前と奥の二つの他に、車輪は見えない。
シャイードはシートを慎重にめくり始めた。
一対の車輪の反対側は、金属で覆われた太い角材が一点で支えているようだ。シャイードは透妖精から話を聞いたときに思い至った予想が、どうやら当たっていたことを確信する。
その時。
シートの下の暗がりに潜んでいた何ものかと目が合った。緑色の、光る一対の瞳。
しまった、と思ったときには、それは身を翻して向こう側へ飛び出していた。
「おわっ! なんだ!?」
「……猫? 山猫か?」
山猫らしき動物は、シャイードからは見えなかったが、一目散に広場を横切って森へと消えていく。
「なんで猫が?」
「あーー……。うちの猫も、こういうとこ好きだったわ」
人間たちがシートを覗き込む気配がして、シャイードは慌てて工作物の車輪の上に乗る。
車輪を動かさぬよう静かに乗ったつもりだったが、踏まれたシートがたわみ、動いてしまった。
「もう一匹いるみたいだぞ」
「おーい。猫、猫ちゃあ~ん。おいでおいで」
シャイードは心臓が早鐘を打つのを感じた。両足を直列させて屈んだ苦しい姿勢だ。
「オレ、そっちから見てみるわ」
「おう、頼む。猫ちゅわ~ん?」
片方が立ち上がり、工作物を回り込んでくる気配を感じた。マズイ、とシャイードは緊張で身体をこわばらせ、腰の短刀の柄に手を添える。瞳がせわしなく周囲を探った。
逃げ場はない。隠れる場所もない。時間もない。
シャイードが覚悟を決めたとき、遠くからどーんという大きな音が響いた。
遅れて空気が揺れる。
「……なんだ?」
「おっぱじまったか?」
回り込んでこようとした気配が立ち止まり、反対側へと戻っていく。
シャイードが慎重に腰を浮かせてシートの向こう側を覗いてみると、二人は立ち上がってこちらに背を向けていた。背伸びをして、森の向こうを見透かそうとしている。
その隙に、シャイードは確認を終えた工作物から飛び降り、影のように森へと走った。
「はぁっ、はぁっ、……焦った……」
そのまま野営地から離れ、充分に距離を取ったところでシャイードは足を止めた。息を整えつつ、背後を振り返る。
工作物の正体は巨大なクロスボウ――バリスタだ。
主に攻城用の兵器として使われるが、軍船に備えられていることも多い。彼らはおそらく、乗ってきた船から取り外し、バラして島に持ち込んだのだろう。
「あいつら、塔を壊すつもりか。それとも……」
敵の武器であれば壊しておきたかったが、そうなれば見張りとの戦闘は避けられない。
気絶させるのが一番だが、人間がどれくらいの強打までなら死なずに済むのか、シャイードには皆目見当がつかなかった。
「透妖精たちに弦を切れと頼むか? そのためには邪魔をしないよう、アイツに協力を仰ぐ必要があるが……流石に無理だろうな」
イレモノからの拒絶を思い出し、シャイードは皮肉な笑みを浮かべる。彼女の瞳には、透妖精の透明化も意味をなさない。
「そうだ! さっきの音。何をやらかしたのか確かめねぇと」
シャイードは野営地を大きく迂回し、音がしたとおぼしき方角へと走った。
森を抜けてすぐに、シャイードは異変に気づいた。
戦いの音がする。
塔のある方角からだ。
「師匠……っ!」
シャイードは速度を上げた。
塔に近づいて最初に見えたのは、巨大な魔物の姿だ。
蹲った姿勢でも、隣に立つ魔術師の背丈から推察するに、3mほどの体高がある。体長は長い尻尾を除いても5、6mはありそうだ。
ずんぐりと太ったとかげに似た姿で、背中の中程から骨状の突起物を放射状に生やしていた。
突起物同士の間には、キラキラと輝く光の粒が糸状に絡まっている。逆さまになった骨だけの傘に蜘蛛の巣が張り、そこに露がついたような状態だ。
魔物は蹲ったまま動いていない。
盛んに動いているのは兵士たちだ。
そしてその中心にいるのが、杖で応戦する師匠の姿。乱戦状態だが、金髪の魔術師の手前では弓兵が狙いをつけている。
シャイードは迷わず、弓兵の懐へと駆け込み、短刀で斬りかかった。
魔術師も弓兵も、乱戦の行方に集中していたため、これは完全な不意打ちとなった。
左腕を斬られた弓兵は悲鳴を上げ、矢はあらぬ方向へと飛んだ。姿勢を崩した弓兵の顎を、間髪入れず左の拳ですくい上げるように殴る。弓兵は脳震盪を起こし、その場に倒れた。
「なんだキサマは!」
魔術師が気づいて大声を上げた。近くにいた別の弓兵二人が、魔術師を守るようにシャイードとの間に割って入る。
矢が立て続けに放たれた。
シャイードは走りながら上体を捻って一矢を躱し、二矢は短刀の背で弾いて彼らに迫った。弓兵たちは焦って次の矢へと手を伸ばすが、それよりも早く、シャイードは二人の懐に入っている。
すり抜けざまに腕と腹に斬りつけた。たまらずに、兵士たちは弓を取り落とす。
その隙に魔術師が呪文を唱えると予想していたのだが、彼はそうせずに魔物の影に回り込んでいた。
追いすがろうとしたシャイードに向け、魔物の尻尾が地面の上を滑って迫った。
「ぐっ……っ!」
とっさに腕を胸の前でクロスして衝撃を殺すことしか出来ない。
シャイードは背後に吹っ飛び、空中で一回転して着地した。乱戦から抜け出た兵が左側から斬りかかってきたが、背中を反らして躱し、左拳で相手のこめかみを殴りつけて倒す。
「シャイード! なぜ来た!」
サレムが杖で兵の斬撃を受けつつ怒鳴る。
「師匠! なんで魔法を使わない!?」
シャイードは師の問いには答えず、自身の疑問をぶつけた。
師の力ならば、これくらいの兵は何でもないはずだ。現に、砂浜で兵士に取り囲まれたときには、簡単にいなしていたではないか。
サレムは善戦しているようで、足元には数人の兵士が倒れている。
だが杖を振る動きにいつものキレがないように見えた。疲れているのだろうか。
「キヒヒヒッ! 使いたくても使えんのだよ。このルミナス・カーバンクルの力でな?」
問いの答えは別の場所から降ってきた。




