追憶のイ・ブラセル 5
夜。シャイードは塔へと戻ってきていた。
サレムからの許可があったわけではない。確認しなくてはいけないことがあったからだ。
「師匠……?」
師の私室のドアをノックしても返事がなかったので、シャイードは遠慮がちに扉を開いた。
中はもぬけの空だ。
「いないのか、師匠?」
シャイードはドアを大きく開き、室内に足を踏み入れた。
相も変わらず、雑多な物で溢れている。足の踏み場もないほどに、床からは本の塔が生えていて、何かに身体の一部を触れさせずに奥まで入ることは、小柄なシャイードをもってしても難しい。
一体、大柄な師はどうやってこの中で生活しているのだろう。
不在ならば仕方ないと、きびすを返そうとしたシャイードの視界に、一冊の本が飛び込んだ。くすんだ赤い色の表紙の、タイトルの書かれていない本だ。唯一、背表紙の一番下に数字らしきものが刻印されているのだが、すり切れてしまっていて読めない。二桁であることだけは分かった。
本には金具で、鍵がかけられていた。
シャイードはそれを手にとり、ためつすがめつ確認する。
「……日記、か? 随分古そうだが、師匠のなのか?」
好奇心がうずく。
シャイードは唇を舐め、腰につけていたポーチから布製の巻物ケースを取り出す。紐を解き、並んだ数々のピッキングツールの中から、一つを選び出した。先端が特殊な形状に曲がっている。
「見た目通りの物理錠なら楽勝なんだが、さて……」
師の椅子に腰掛け、シャイードは鍵開けに挑戦する。さほどの手間も掛からず、あっさり解錠できた。ピッキングツールをポーチにしまい、宝箱を開く心地で表紙を開く。
すぐに手が止まった。
「……な、なんだこれ……? 古代文字?」
内容は確かに日記のようだ。ページごとに日付と年号らしき数字が記されているからだ。しかしどこの国の、いつの時代の年号かは分からない。
筆跡は師匠のものに似てなくもないが、読ませることを前提にしていないのか、かなり乱雑に走り書きされていて、断言は出来なかった。
幸い、シャイードには古代文字の心得がある。師匠の持つ本は、古代文字で書かれた物が少なくなかったし、シャイードは学ぶことに貪欲な子どもだった。
尤も、あくまで単なる古代文字なら読める、というだけだ。魔術に使用される上位の古代文字は変則的で、文字を読めるだけでは内容を理解できない。
ともあれ、日記は一般的な古代文字で書かれていたため、シャイードにも読むことが出来た。しかし。
「……指示語が多すぎる」
アレは、とか、アノ件で、とか。なので、前提を知らずに読んでも何の話だかさっぱりだ。また、日記に登場してくる人物も、頭文字なのか、大文字一文字で統一されていて、これまた知らない者にはさっぱりの内容だ。
書いた人物は研究者か学者のようで、日々の仕事の進捗についてのメモ書きが多かった。
シャイードは落胆しつつ、ぱらぱらとページをめくっていく。
するとページの間から、四つに折りたたまれた羊皮紙が落下した。
拾い上げて開いてみる。これまたかなり古いもののようで、紙が劣化していて、開いただけでぱらぱらと細かい部分が崩れて穴になった。
羊皮紙に描かれていたのは、何らかの建物の設計図のようだ。随分変則的な設計をしている。
部屋と部屋が長い通路で連結されていたり、奇妙な絡繰りが付記されていたり、大きな丸い部屋の中央に、魔法陣が描かれていたり。
シャイードは目を細めた。
「地下遺跡みてぇ……」
記憶を覗いているシャイードには、その設計図がどこのものかすぐに分かった。
(これはクルルカン遺跡の、あの区画だ。サレムが魔導書を隠していた……)
もっと良く見たいと思ったが、記憶の身体は興味を失って元の通りに羊皮紙を折りたたんでしまった。
内なるシャイードは、概念上の額に手の甲を添える。
(……と、いうことは。この日記はあの施設で研究をしていた何者かの日記なのか? ああっ、くそ。まだ閉じないでくれ! ビヨンドについての手がかりが、あるかも知れないって言うのに!)
過ぎ去った記憶は、思い通りには動いてくれない。日記を閉じて金具を押し込むと、カチリと音がして鍵が掛かった。
彼はそれを、何事もなかったかのように机に置く。
そのタイミングで、階段を降りてくる足音がした。
シャイードは平然とした態度で、師の部屋の、開いたままにしていた扉から外に出る。
師は腕組みをして、どこか心ここにあらずといった表情だったが、シャイードに気づいて顔を上げた。
「師匠。どこ行ってたんだ?」
「外の空気を吸いに、上にな。……何か用だったか?」
答える師の僅かな瞳の揺れから、シャイードにはサレムが何かを隠しているのが分かった。
だがそれは本題とは関係がなかったので、無視をする。代わりに、問いかけに頷いた上で質問を投げかけた。
「アイツら、この島に盗まれた品を探しに来たらしいぜ。師匠、何か心当たりはあるか?」
これを聞いたサレムは呆れ顔をした。腕を伸ばし、シャイードの頭を大きな掌で包み込んで押さえつける。
「シャイードよ、お前また! まったく……少しは素直に私の言うことを聞けないのか? 私は妖精たちと隠れていろと言ったはずだが?」
「イテテ! 止めろ、師匠! 背が縮む!!」
そのまま頭を揺すられ、シャイードは悲鳴を上げた。
師匠はため息ともに手を放し、シャイードは解放された。頭に両手を当て、反抗的に師を見上げる。
「お、俺が着いたときには、既に透妖精たちがニンゲンの様子を見に行ってたんだよ!」
「お前が言いつけ通りすぐ森に行かずに、様子を見に浜辺へ寄ったからだろうが」
「何で知って……あっ!」
「やっぱりな」
サレムはかまをかけただけだったが、それに気づいたときには既に遅し。
「そんなこったろうと思った。やれやれ。竜の子ってのは、こんなにも育てにくいもんかねぇ?」
「か、カンケーねぇだろうが!」
シャイードは赤くなった。育て親のサレムに、子ども扱いされたと感じたからだ。
「まあいい。入れ」
サレムはシャイードの首の後ろに手を添え、自室へと誘う。
シャイードはまだ頬に赤みを残したまま、口をへの字にしてそれに従った。
「結論から言うと。私はあの者たちから何も盗んではいない」
「そうなのか?」
勧められた丸椅子に腰掛け、シャイードは正面に座る師を見上げる。
師は頷いた。
「彼らは何も知らんのだ。耳にした偽りを、そのまま信じているだけで」
「ふぅん。じゃ、それを言って聞かせれば良いのか」
「既に試したがね。残念ながら聞く耳持たれなかったよ」
「はぁ? ……、それっておかしくないか?」
シャイードは眉根をぎゅっと寄せる。
「偽りはあっさりと信じるのに、真実には端から耳を貸さないのか?」
サレムは皮肉っぽく口元を歪め、ひらりと片手を振った。
「所詮、人は信じたいことを信じるもんさ。彼らにとっちゃ、他者が所有する貴重なものを力で奪う、ってより、盗んだものを取り返すって方が、心地の良い真実なんだろう」
シャイードは難しい顔をした。
心地の良い真実。お互いがそうやって勝手な真実を信じるから、争いが起きるのではなかったか。
「アイツらが欲しがっているのは、そんなに貴重な物なのか?」
「まあ、そうだろうな。……彼らが数十年もの間、執拗に探し続けるくらいには」
サレムは口元をゆるめ、首を傾ける。灰青の瞳が、面白がっているような光をたたえた。
「な、なんだよ。師匠はそれを持ってるのか?」
問いかけを聞き、サレムは片手で顎を撫でた。うーん、と唸りながら遠い目をしている。
「持っている、とは言いがたいな。精々手元に置いている、というくらいで」
「??」
出た、師匠の謎かけ。
手元にあるけれど、持っていない。盗んでもいない貴重品?
シャイードは首を捻ったが、どのような物がそれに該当するかさっぱり見当がつかない。
「それを返……、じゃなかった。くれてやる訳にはいかないか? そうすればもう、アイツら、来ないと思うんだが」
サレムは意表を突かれたように瞠目してから腕を下ろし、ニヤリと笑った。
「ほう、なかなか気前の良い選択だな」
「だってそうだろ。ニンゲンどもにこの島を土足で踏み荒らされるくらいなら……。俺なら大抵の物をくれてやれると思う」
この答えに、サレムの笑みは深まり、ついには声を上げて笑う。
「はっはっは! なるほど、力よりも懐柔を選ぶか。シャイードよ、お前にはドラゴンらしからぬ部分があるようだ」
師匠は手を伸ばし、今度はシャイードの頭を撫でた。
シャイードは赤面する。また子ども扱いだ。
「だからカンケーねぇって! 子ども扱いすんな、サレム! 俺は面倒なことが嫌いなだけだ。物で追い払えるなら安いもんだろうが!」
シャイードはサレムの太い腕を振り払う。師匠呼びが、いつのまにか子ども時代のサレム呼びに切り替わっていることにも気づかない。
サレムは手を膝に戻し、笑いを収めて息を吐き出す。
「ところが関係大ありだ。彼らが欲しがっているのはな、」
師は一度言葉を切り、養い子を見つめた。勿体ぶったような沈黙が流れた後、太い片腕がゆっくりと持ち上げられる。
人差し指がシャイードをまっすぐに捉えた。
「――ドラゴンだ。そう、お前なんだ、シャイードよ」
「………お、俺ぇ!?」
意外な指摘に、シャイードは声を裏返らせる。サレムは無言で頷いたのち、腕組みをした。
「ドラゴンを得て、戦で他国の優位に立つつもりなのだろう。お前をくれてやるわけには行かない。まぁ、やっかいな奴が来てるのが少し気に掛かるが……、『雨がなければ虹もなし』と言うからな。遅かれ早かれ、片をつけねばならん問題だった」
そのまま、師は窓の外へと視線を投げる。
「大事な弟子を、人殺しの道具にはさせぬよ」




