欠けた者たち
「どこに行っていた? イレモノ」
連れ戻された天幕で、隊のリーダーである金髪の魔術師が問うた。彼は天幕の奥の椅子に座り、足を組んで頬杖をついている。
一番大きな天幕だが、明かりはグレッセンの近くにあるテーブル上のランプだけ。全体的に薄暗い。
彼が光を嫌っていることを、イレモノは知っている。
彼の片眼が光を失ったとき、彼の半身も闇に閉ざされたのだろう。
『花を摘みに』
「そうでないことは分かっている。私に嘘をつくな! 汚らわしい、奴隷の分際で!」
グレッセンは急に甲高い大声を出した。
「どうせ逃げようとしたのだろう!? 今更、命が惜しくなったか? ハッ! 虫けらの分際で、恐怖でも感じたか?」
イレモノは答えなかった。正直に答えても彼は信じないだろうし、信じてくれたところでどうにもならないことを知っている。
一番良い方法は、黙ってやり過ごすことだ。
黙っていれば、彼は勝手に満足する。
「また沈黙か」
グレッセンは片手を顔の高さに持ち上げた。
「黙っていれば、私が満足するとでも思っているのだろう?」
鋭い。イレモノは顔には出さずに感心した。グレッセンの認知は歪んでいるけれど、真実を見抜くこともあるようだ。
「生意気な小娘め! 私は前から、キサマのその目が気にくわないのだ。女の分際で、私を見下しているのだろう!?」
イレモノは目を瞑った。
これは見当違いだ。別に彼を見下してはいない。他の誰に対してもそうであるように、何とも思っていない。
しかしこの目も、生物学的には女に分類されることも、自分ではどうしようもないことだ。
そこを責められても、イレモノにはどうすることも出来ない。だからこれは、彼自身の問題だ。
彼は人を見下すから、人からも見下されていると思い込むのだ。
彼は鏡に向かって吠える、哀れな犬だ。
そこまで考えて、イレモノは目を開けた。確かに、自分は彼を、見下している部分があるのかも知れない。これは面白い発見だった。
「どいつもこいつも、私を馬鹿にして! 全部、アイツの……サレムのせいだ!!」
サレム、というのが、此度の標的の一人であると知っている。しかし、イレモノはそれ以前にも、グレッセンの口から何度もその名が上るのを聞いていた。
サレムは30年近く前に、帝国に仕えていた宮廷魔術師だという。
見かけの年齢にそぐわぬ強大な術式を操り、失われた魔法にも詳しかったとか。高い地位を授かりながらも政治に口を出すことはなく、何かの研究に没頭していたらしい。
ところがあるとき、国宝である竜の卵を宝物庫から盗み出して姿を消したのだそうだ。
その時に、宝物庫の管理を担当していたのが、若き魔術師であるグレッセンだった。
当時、グレッセンは帝国の魔術師の例に漏れず、サレムを尊敬していた。信じて裏切られ、彼は責任を取らされて処罰を受けた。
投獄と尋問。共犯ではないかとも疑われ、貴族の家に生まれて順風満帆の人生を送っていたグレッセンの人生に、初めて暗い影が差した。
疑いが晴れるまでの苛烈な日々は、グレッセンの心に癒やすことの出来ない傷を刻んだ。それ以降、彼は疑心暗鬼になり、誰にも心を許せず、何も信じられず、ひたすらにサレムを憎んで復讐を望む人生を送った。
サレムの残した文献を漁り、彼の研究の意味を知ろうとした。
そしてある一つの存在を突き止める。
ビヨンド。
外つ世界から喚び出され、この世のコトワリが通じない魔神たち。
魔法王国を滅ぼしたと言われる存在の、残された眷属だ。
グレッセンは狂喜した。彼はサレムに追いつき、その魔術の深奥を理解したと思い込んだ。
彼はさらに研究を進め、サレムが封じたビヨンドの一つを発見する。
そしてイレモノが買われた。
魔法王国の崩壊以後、長きにわたって忌み嫌われて続けてきた罪深き者たち、スティグマータ。彼女はその汚染された系譜の末裔であり、生まれながらに奴隷となることを約束された少女だった。
やがて、まるで時を待っていたかのように、ウィッチボールの一つが隠された島を発見する。これを耳にしたグレッセンは狂喜乱舞した。神を露ほども信じていない彼が、「これぞ神の加護だ!」と大声で触れ回ったほどだ。
グレッセンはすぐに国宝奪還任務に自身を推挙し、遠征中の皇帝に代わって宰相から許可を得る。
その後もグレッセンは、のんびりと街道を旅したりはしなかった。陽光街道の東端であるホーヘン港へとイレモノを連れて飛び、別任務で近くにいた帝国兵を船ごと動員して出航したのだ。一連の素早い動きには彼のサレムに対する執念と、本来の優秀さが現れていた。
「まあいい。どうせキサマは明日までの命だ、許してやる」
グレッセンは迎え入れるように両腕を広げ、寛大さを表現しようとした。顔には歪んだ笑みが張り付いている。
「宝石は持っているな?」
『ええ。わたし、ちゃんと拾った』
イレモノは今度はきちんと質問に答えた。
しかし、グレッセンは既に聞いていない。ランプの光に照らされ、瞳がぎらぎらと輝いている。
「見ていろよ、サレム。明日こそ、どちらが上か思い知らせてやる。キサマを地べたに這いつくばらせて、私の足を舐めさせてやるのだ。ククッ、クククッ、ヒャーッヒャッヒャッ!!」
どうやらいつも通り、一人で勝手に満足したらしい。
イレモノは小さく息をつき、彼を残して寝床へと向かった。
◇
『わたし、あした、死ぬのね』
両手で粗末な毛布の裾をつかみ、暗闇を見上げながら彼女は考える。
死とは何だろう。
身体が機能を終え、動かなくなること。心が何も感じなくなること。何を見ることも、何を聞くことも、話すことも、出来なくなること。
誰からも見えなくなること。
色々と考えてみたが、どうもピンと来なかった。
『だって、わたし、生きてなかったもの』
誰も彼女を、生きた人間として扱わなかった。一番新しい名前からして、容れ物だ。
彼女は物心つく前から金銭で取引されていたし、物か、良くて家畜として扱われただけだ。
それは彼女の血筋に罪があるからだという。
それなら仕方ない、と彼女は初めから諦めていた。
グレッセンは、悪いマスターではなかったと思う。少なくとも、彼からは肉体的な虐待を受けなかった。
精神的な虐待については分からない。何を言われても、心が痛んだりはしないから。
その時、イレモノの心に、会ったばかりの少年の姿が浮かんだ。
彼はイレモノの頬にある痣を見ても、何も思わなかったようだ。閉ざされた島に住む彼は知らなかったのだろう、それが汚らわしい罪人の一族の証であると。
そうでなければ、あんな風に扱ってくれるわけがない。
――……来いよ。逃がしてやる。いやだろ、奴隷だなんて?――
彼はそう言った。
『わたし、嫌だったのかな? 奴隷であること』
考えたこともなかった。なぜなら、彼女はそれ以外の生き方を知らないから。
だからそれは、彼が勝手に考えたことだ。彼がそうだったら嫌だと思っていることだ。
『わたしの心とは、関係ない』
そのはずだ。
けれど、イレモノはその時、生まれて初めて、心に血が巡るのを感じた。
凍り付いて動かないと思っていた心が、ふわりと溶けて、甘く柔らかく、鼓動するのを感じた。
どくん、どくん。
胸に手を当てると、その音は生まれたときから止まずにあった音だ。今まで気づかなかった。
彼のことを思い出すと、鼓動が早くなる。体中に血が巡る。
『ほっぺ、あったかい』
イレモノは両手を頬に当てた。とても不思議で、何度も手を離しては触る、を繰り返す。
彼の黄金のまなざしを思い出す。それが自分に向いていたことを考えると、ふわふわと地面から浮かび上がる気がした。
『なんだろう。この感じ……。へん』
冬の日の、短い朝の布団の中のようだ、と思う。それが心の中にある。
あのときは、感じたこともない奇妙な感覚に驚き、とっさに拒絶してしまった。
けれどもし。……あり得ないけれど、もし、今度。彼が手を取ってくれたのなら。
『わたし、一緒に行っても、いい、かな?』
けれど、自分は明日、死ぬ。マスターがそう言うのだから、仕方がないことだ。
痛くなければ良いが。
すぐに終わると良いが。




