追憶のイ・ブラセル 4
最初は全力疾走で。人間たちの野営地が近づいてからは、念のために影に潜む走り方で透妖精たちを追った。
声を出してフーリを呼ぶわけには行かない。
シャイードはリスのように素早く、静かに木に登り、野営地を見下ろした。
「俺がこれ以上近づくのは危険だな。人の目が多い」
「ぼくたちで見てくるよ。もし、シャイードの力が必要になったら、呼びに来るね」
透妖精たちは頷き合って、野営地へ飛び去っていく。赤い輪郭だけが、シャイードの瞳に映った。
「気をつけろよ」
潜めた声で彼らを見送る。彼らがいない間に、シャイードは野営地の様子を観察することにした。
見える限りではテントが8つほど、少しずつ離れて張られている。中央には木を切り倒して作った広場があった。倒した木々は、早くも薪にされてテントの脇に積み上がっている。
手早い。魔法を使ったのかも知れない。
生木を薪にしたためだろう、たき火からは煙がもうもうと上がっている。この時期の木々は通常、比較的乾燥しているのだが、季節外れの大嵐の影響はまだ残っている。木々の水分量が多いのだ。
シャイードは意地悪そうに片顔で笑った。人間が、煙に咽せていたからだ。仕留めた鹿やうさぎ、それに魚を焼いている。
「……ん?」
煙の向こう、テントかと思われた白い塊が、他のテントとは異なる形をしていることに気づいた。
目をこらして良く見ると、何かの上に白い布をかけてある様子だ。
「もしかして、あれが……?」
近づいて確認してみたいところだったが、置かれているのは近づけば必ず、人間に見つかる位置だ。
気づけば陽は海の向こうに傾いてきていた。
「夜になれば、もう少し動きやすくなる……か? それまでにフーリが見つかれば良いが」
シャイードが枝に足を伸ばし、幹に背を預けて持久戦の構えを取った時だ。
『……あなた、誰?』
耳元で声がして、シャイードは枝から転げ落ちそうになった。とっさに片足を枝に絡め、バランスを取り戻す。すぐさま周囲を警戒するが、誰もいない。むろん、透妖精たちでもない。
「なんだ? 今の……」
『わたし』
再び耳元で声がする。
(耳元じゃないぞ。頭の中だ)
シャイードが思うのと同時に、記憶の身体もそれに気づいたらしい。
木の根元を見下ろすと、黒いローブ姿があった。小柄だ。直感的に、浜で見た魔術師のうち、小さい方だと判断する。
(こんな記憶は……知らない)
内なるシャイードは、この記憶を完全に失っていることに気づいた。この魔術師がその元凶だろうか。彼は経過を見守ることにする。
頭の中に響いた声は、若い女のものに聞こえた。声の主は樹下で、フードを被って両手を互いのローブの袖に突っ込んで立っている。
シャイードは魔法を警戒し、別の枝へと身体を移した。相手からは茂った葉の陰になる。
『ねえ、誰なの? あなた、見たことない』
「………」
シャイードは困惑する。ここで悲鳴でも上げられたらおしまいだ。
やるしかない。そう判断し、シャイードは音もなく木から飛び降りた。
途中の枝を蹴り、黒ローブの背後に降り立つ。相手が振り返るよりも早く、背後から縛めて口をふさいだ。
黒ローブ越しの胸に、ほのかな膨らみを感じる。――やはり女。なじみのない感触に僅かに戸惑いながらも、シャイードは冷静に判断した。女は反応しきれなかったのか、全く抵抗しなかった。
「静かにしろ。大声を出したり逃げたりしなければ、危害は加えない」
耳元でささやく。
『そんなこと、しなくても平気』
再び頭の中に声が響く。冷静な口調だ。
シャイードは片眉を上げる。フードを斜め後ろから覗き込んだタイミングで、女が頭を上げた。至近距離で、顔と顔が向き合う形となる。
女は、思ったよりもずっと幼い。先端を切りそろえた銀の髪に、大きな赤い瞳。そしてふっくらとした頬には、大きな痣があった。複雑な魔法文字のような、魔法陣の一部のような、奇妙な痣だ。
『わたし、話せない、から。あなたのしてること、無駄』
「なにっ!?」
話せないのに魔術師だと!? とシャイードは困惑した。
『わたし、魔術師じゃない。ただの、奴隷』
「奴隷……」
少女はシャイードの思考を読んだ。けれどシャイードは、その返答に衝撃を受けたがために、すぐには気づけなかった。
それは人間の社会構造の中に存在する階級だ。奴隷は人でありながら、人と同等の権利を持たない。物として売買され、消費され、搾取される存在だという。
初めてその話をサレムから聞いたとき、そんな地位に甘んじる者がいるなどと、にわかには信じられなかった。それをサレムに言うと、彼は何かを言いかけ、結局無言で肩をすくめたものだ。
「お前が? 奴隷?」
シャイードは無意識に、彼女を束縛する腕の力が緩んでしまったのを感じ、慌てて力を込めなおした。
腕に返る感触は驚くほど華奢で頼りない。力の加減を少しでも誤れば、骨を折ってしまいそうな気がする。ローブの下は素肌のようだ。
少女は相変わらず、何の抵抗も見せない。ただ、大きな赤い瞳で、シャイードをじっと見つめている。
最初の問いの答えを、いつまでも待っているようだ。
「お、俺は……」
シャイードはどう答えようか迷う内に、先ほど思考を読まれたことに気づいた。とっさに心を閉ざす。
少女から、落胆の気配が感じられる。彼女は表面的な思考しか読めないようだ。
『当たり。それも、くっついていないと、できない』
シャイードは慌てて腕を放した。少女は叫ぶことはおろか、逃げることもしない。シャイードの方に向き直り、膝を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
じっとこちらを見上げてくる。
「? ……??」
シャイードは困惑し、後頭部に片手を添えた。
『あなた、不思議。見たことない色してる』
「色? 何のことだ?」
『あなたの、まりょく』
「!? そんなものが見えるのか?」
『見える。あなた、人間じゃない』
シャイードは狼狽して黙り込んだ。視線を揺らし、やがてため息をつく。
「そのことは話したくない」
『そう』
少女は答え、視線を地面に落とす。手近の草を、ぶちぶちと抜き始めた。
シャイードはその行動が何かに繋がるものだと思い、しばらく見守る。彼女は飽きるまでそれを続け、不意に止めた。
『あなた、ひとりぼっち、なのね』
「は?」
何を言っているんだこの女は。そう思ったけれど、今現在の状況を思い出し、シャイードは頷く。
「ここまでは仲間と一緒だったが、今は、」
『違う。そうじゃない』
再びシャイードを見上げてくる。何も語らない。その瞳の不思議な美しさに、シャイードはしばし見惚れた。汚れなく純真にも見えるし、歳ふりて狡猾にも見える、不思議な瞳だ。
全てを見透かすような、或いは、全てを諦めたかのような――。
ただ或るものを、或るがままに見ているような。
急に背筋に冷たいものを感じ、シャイードは我に返った。
「そうだ。お前、透妖精を見なかったか? あー……、見るってのは違うか? 多分、透明な姿をしていて……」
『知ってる。透明の、変な虫』言って彼女は掌を目の前に掲げ、ゆっくりと握り拳を作る。
『捕まえた。きれいだったから』
「!! 殺したのか!?」
勢い込んで尋ねると、少女はゆっくりと首を振った。安堵の余り、シャイードの身体から力が抜けた。少女の向かいにあぐらで座りこむ。左手の掌底を額に当て、ため息をついた。
『あなた、虫、欲しいの?』
「あ、ああ」
少女は答えを聞くと、立ち上がった。そのまま立ち去ろうとしたので、シャイードは慌てて手を伸ばし、ローブをつかんで引き留める。
「待て。その前に教えろ。――お前らは、何をしにこの島にやって来たんだ?」
少女は動きを止めてシャイードを振り返る。黙り込んだままだ。シャイードはその様子に、目を細める。
「口止めされているのか?」
少女は首を振った。
『されてない。言っても平気。グレッセン、盗まれたもの、取り返しに来た』
「グレッセン?」
『わたしの、マスター。金髪の、魔術師』
ああ、とシャイードは頷く。浜辺で見かけた、リーダー格らしき人間だ。
「盗まれたものって……」
問いかけようとして、口を噤む。人間の怒声が聞こえた。
「イレモノォ! いつまで掛かってる! どこまで行ってるんだ!」
シャイードははっとして片膝立ちになる。すぐ動ける姿勢だ。
「イレモノ?」
『わたし。呼ばれた。……行かないと』
「待てよ。まだ最後まで聞いてないぞ」
『あなたまで、つかまる』
「お前、つかまってるのか?」
『………』
少女は沈黙した。言葉の意図が分からなかったのかも知れない。
シャイードはため息をついた。
「……来いよ。逃がしてやる。いやだろ、奴隷だなんて?」
深く考えずに口にし、掌を上にして手を伸ばした。相手は人間だが、その時はすっかりと忘れていたのだ。
イレモノと呼ばれた少女は目を見開く。その瞳に浮かんだ感情を、シャイードはこれまでに見たことがない。
まるで、たまごから生まれたばかりの雛のような。初めて世界と出会ったような瞳だ。
彼女の瞳は、シャイードの顔のパーツを一つずつなぞって揺れた。長い、長い沈黙が添えられる。
それから彼女の瞼は、ゆっくりと元の位置に戻っていく。
シャイードに向かって両手を伸ばし、突然、その身体を勢いよく突き飛ばした。
意表を突く行動に、シャイードはあっけにとられる。これほど力強く拒否されるとは、思ってもみなかったのだ。
少女はきびすを返した。
『虫、ちゃんと放す』
振り返らずに彼女はそう約束して、茂みを分けて声の方に向かった。
「なんだよ、俺が折角……」
唇をとがらせる。よかれと思って口にしたことに対し、何故か彼女は怒った(?)のだ。
最後に見た彼女の表情が、頭から離れない。呆然と木の根元で俯いていたシャイードの元に、しばらくして、透妖精たちが喜びと共に帰ってきた。




