二つの水面
(そうだ! ビヨンドが現れる直前、アルマが海の中に光を見つけたんだった)
襲撃のごたごたで、すっかり意識から消えていた。
特に明るい方へ行ってみると、氷にひび割れがあり、光が隙間から帯状に漏れだしていた。
ひび割れの下には海面があり、さらに下方には淡く光るもう一つの水面が見えた。
「そういやアイツ、世界膜がどうとかも言ってたな」
ビヨンドの存在は世界膜を乱すのだったか、とシャイードは思い起こす。
シャイードは荷物とマントとクロスボウを小舟に置き、裂け目のある地点へ戻ってくる。
宝石の入ったボディバッグと二振りの剣は身につけていた。
小舟の付近には光がなかったから、光る水面自体は見かけほど広範囲に広がっているわけではないらしい。薄い光は、ここからの光を氷が反射したものだ。
(様子を見に行くとすれば、ここからだ)
光る水面までの距離はつかみにくかったものの、海のそう深くない場所にあるように見える。
ひび割れを利用するなら、この姿のままでないと無理だ。
(まずはこのまま潜ってあの海面を見てみるか。何か手がかりがあるかもしれん)
シャイードは覚悟を決め、足から先に裂け目へと身を滑り込ませた。
初夏の海とは言え、凍らされたせいで海面付近は身を切るような冷たさだった。
「つめてぇ!」
水面から顔だけを出した状態で、シャイードは悪態をつく。何度か深呼吸を繰り返して冷たさに身体を慣れさせ、最後に大きく息を吸って身を反転させた。
氷床を蹴り、深みに向けて両腕を掻く。島育ちなので水泳は得意だ。
(これは……)
海の中はあえかなる光に満ちていた。
眼下には光の膜がある。明るい色に揺らめくもう一つの水面だ。そしてそこからの光が海上の氷床に当たり、淡いエメラルド色に輝かせていた。泡が作り出す網目模様が、常に揺らいで形を変化させている。
光の膜が揺れると、網目模様も揺れる。二つ目の水面から差し込む光は、横から見ると帯状で、カーテンのようだ。
魚影はない。
海面と海面の間に、ただただ光に満ちた静かな世界が広がっていた。
ゆらゆらと定かならぬ第二の水面に近づくにつれ、シャイードは海の中から見上げた空を想起する。
膜を透かし見た向こう側がぼんやりと明るく、それが膜全体を輝かせていた。
シャイードは光の膜に右手を伸ばし、恐る恐る触れる。
手はあっさりと膜を突き破り、向こう側へと抜けた。
(温かな……水……?)
突き抜けた先で指を動かすと、揺れる膜越しにその様子が見て取れた。膜の向こう側も水中のようだが、こちら側とは水温が全然違う。意を決して、膜に頭を突っ込んでみる。
(!?)
頭を出した途端、上下の感覚が反転する。光る膜を潜る前は、頭が下で足が上だったのに、今は頭が上で足が下。
シャイードは混乱し、目眩を感じた。平衡感覚がおかしくなる。焦った拍子に、幾らか息を吐き出してしまった。
まずい、と思いながら上を見上げると、それほど遠くないところにもう一つ水面がある。
シャイードは迷わずに水を蹴った。
ザパッという聞き慣れた水音のあと、シャイードの頬は空気に触れた。
「ぷはっ!」
息が続かず、吐き出す。続いて吸い込んだ空気は、とても甘くて濃密だ。花の香り? それとも果実の香りだろうか。ともかく、呼吸できる空気だ。
頭上には少し傾いた太陽がある。
(いや、太陽か? 妙に大きい気がするし、なんだか……)
どうやら池か湖のようである。数十メートル先に緑の影が見えるが、もやが掛かっていて岸辺か小島かは分からない。水中に視線を落とすと、数メートル下方に今潜ってきた膜があった。その向こうにはエメラルド色の白い底が見える。先ほどまで立っていた氷の底だ。
(どこなんだ、ここは。何で海の中にこんな……)
戸惑いながらも陸地とおぼしき方角へ、ゆっくりと水を掻く。
すると突然、もやの向こうから馬のいななきが聞こえた。続いて、水を掻く音が複数、近づいてくる。
シャイードは身構えた。と言っても、立ち泳ぎの不安定な姿勢ではたいしたことは出来ない。
水音はみるみる近くなり、やがてもやを割って馬の頭部が水面に現れた。
たてがみまで真っ白な馬だ。湖面を映したような瞳の色をしている。胴体は水の中に浸かったままだ。
二頭、三頭とその背後に次々と馬が現れる。頭を巡らせると、いつの間にか音も無く、シャイードの背後にも迫っていた。
円を描くように囲まれる。
(水棲馬だ)
気性の荒さで知られる水棲の妖精馬だ。ここは彼らの生息域らしい。
馬たちは目と耳で、シャイードに注目している。鋭い目つきは警戒しているようにも見えるし、威嚇しているようにも見えた。獲物かどうか、吟味しているのかも知れない。
シャイードはいつでも抜けるよう、剣の柄に右手を添えながら、前後左右に視線を走らせた。
水棲馬ごとき、本来のシャイードの敵ではないが、数と地の利は彼らにある。それに、ここがどこか分からぬ限り、安易に元の姿に戻れない事情もあった。
じわじわと輪を縮めてくる水棲馬に向け、シャイードは口を開く。
「おい、お前ら。ここはどこだ?」
口にしたのは妖精語だ。馬たちは動きを止めた。その瞳に戸惑いが浮かぶ。
初めに現れた白馬が、輪から一馬身、シャイードの方に進み出た。
「ニンゲン。オレタチノコトバ、ハナスノカ?」
「ああ、話せる。だが俺はニンゲンじゃない。……ドラゴンだ」
「ドラゴン!」
最後だけ小声で暴露した秘密を、相手は大声で繰り返した。残りの水棲馬達は一様に目を剝く。続いて一斉に笑った。ともあれ、歯をむき出して笑ったように見えた。
「オマエ、バカナコトイッタ。オマエ、チイサイ。ドラゴンニ、スコシモニテナイ」
シャイードは小さいと言われてカチンときた。剣の柄から手を離し、頭に巻いていたターバンを解くと、意識的に角を伸ばす。
「焼き殺すぞ、礼儀知らずの馬鹿馬ども」
半眼になり、低い声で威嚇した。喉奥でぐるると獣めいたうなり声をさせる。水棲馬たちは本能的にひるみ、シャイードを囲む輪が広がった。
代表らしき馬が、落ちつかなげに耳をあちこち動かしつつ口を開く。
「ナルホド。オマエ、ニンゲンデハナイ、ワカッタ。ダガ、ナニシニココキタ」
「人を……、いや、本を探している。それと光精霊と。見なかったか?」
馬たちは顔を見合わせた。誰からも返事がない。その顔を見比べてみたが、思い当たる様子のものはいないようだった。
シャイードは肩を落とす。
「……そうか。それともう一つ。ここはどこだ?」
「オマエ、シラズニキタノカ」
「海の中、だと思ったんだが……」
「ココハ”オオガマノミズウミ”ダ」
「オオガマノ……、大釜の湖!? マグ・メルのか!?」
水棲馬の言葉を、一瞬遅れて脳が理解する。シャイードは目を見開き、確認するように繰り返した。
水棲馬がソウダと返事をする。代表格の傍に、輪から一頭の水棲馬が近づいてなにやらささやいた。
二頭はじっとシャイードを見つめる。
(だとすれば間違いない)
シャイードは合点がいく。濃密な空気、それは現世界よりも濃い魔力密度であるゆえの甘さだ。
(ここは―――妖精界だ)




