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【完結】竜と魔導書  作者: わーむうっど
第二部 妖精裁判
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別離

 海面はみるみる氷に覆われ、帆船の船体にも白い掌が這い上っていった。

 甲板にまだ突き刺さっていた幾本かの槍めいた触手にも氷が襲い、鏡面体のビヨンドは船を抱きしめたまま凍っていく。

 実際にはビヨンド自体が凍っているわけではない。氷に閉じ込められることで、動けなくなっているだけだ。アルマの言葉通りなら、停滞ステイシスフィールドの中身は無傷だろう。

 這い寄る氷が船にいる人間たちを巻き込むことはない。それがアルマの制約――人には危害を加えられないのだ。


(これは白蛆の。呪文はぎりぎり完成したのか)


 シャイードは凍った船縁にとりつき、氷原になった海に目を凝らした。

 月が明るいとは言え、今は夜中だ。見渡せる範囲には限りがある。

 だからこそ、フォスの明かりは暗い海中でも目印になると思ったのだが、せわしなく瞳を動かしても見つからない。


(思ったより氷が厚い? そもそもアイツ、泳げるのか? 本に戻って沈んだ可能性もあるのか)


 アルマは人ではないから、窒息死することはない――はずだ。最悪、魔導書の形態に戻れば、何の危害も受けないとシャイードは聞いている。だが基本的に、発声が出来なければ呪性魔法は使えない。

 光精霊であるフォスにも酸素は不要。しかし暗闇に長く居すぎれば、フォスは次第に弱ってしまう。

 幸い極光エビの例を待つまでもなく、海には光る生き物も多く棲むから、まったく光を供給できないということはないはずだが。


(アルマを頼んだぞ、フォス)


 フォスはアルマを怖がっていた。一度、食べられそうになったからだ。

 それでも、シャイードの願いを聞いてくれた。

 故郷を出てからずっと傍にいた小さな供の不在は、思った以上にシャイードを不安にした。


 シャイードはランタンの持ち手を口に咥えてロープを使い、船から氷原に降りた。フォスの光を探しながら船首を回り込み、ビヨンドの傍へ行く。

 鏡面体の表面は今や白く凍り付き、ぴくりとも動かない。

 だがそれも、氷が溶けてしまうまでの短い間だけだろう。海水は凍りにくく溶けやすいと以前シャイードは本で読んだ。

 左舷船首は大きく破損し、下層には海水が入り込んでいた。

 凍ったことで今は沈没を免れている。しかしビヨンド同様、氷が溶けてしまえば浸水で沈没してしまいそうだ。

 積み荷も、船底付近に置かれたものは海水に浸かってしまっていた。

 凍ったビヨンドを銛で刺そうとしていた船員がいたので、シャイードは「よせ」と制止した。

 ビヨンド本体に武器でダメージを与えることは出来ないし、全身を覆っている氷を壊してしまえば再び動き出す恐れがあると説明する。


「アルマ、見つからない?」

「……ああ」

「心配だわね」


 魔法でふわりと隣に降りたメリザンヌが、氷原に立つ。彼女は言葉通りに、心配そうな顔をしていた。

 彼女は何かを察したはずだ。

 クルルカンの遺跡から脱出する際、アイシャであるアルマが詠唱したところを彼女は見ていない。しかし、その結果を見てはいた。

 この場の状態から、あの魔法を連想しないわけがない。


「乗組員と私たちは、向こうの船に乗せて貰えることになったわ。予定を変更して、ここから一番近い港に避難するつもり」

「そうか」

「貴方ももちろん、一緒に来るわよね?」


 シャイードは黙り込む。それはつまり、アルマをあきらめろと言うことだ。


「ちょっとぉ!? ここに残ったからといって、どうなるのよ。一度、体勢を立て直して準備を……」

「そうして、またこの怪物と戦うのか? アルマ抜きで」


 シャイードの言葉は痛いところを突いた。メリザンヌは胸に、握った拳を引き寄せて俯く。


「でも……、それじゃあ……」

「俺は残ってアルマを探す」

「どうやって? 浅瀬じゃないのよ?」


 問いかけるメリザンヌを、シャイードは無言で見つめた。その視線で、魔女は意味を汲み取る。


「そう、確かに。貴方の本来の姿なら……。いいえ、でも、駄目。貴方は私と一緒に来るの」


 魔女はシャイードに両手を伸ばす。浅黒い頬を左右から包み込み、スミレ色の瞳をまっすぐに合わせて微笑みかけた。

 かぐわしい香りが放たれ、シャイードの鼻孔を冒していく。


「そうしなくてはならないわ、私の可愛い子。貴方は私と一緒においでなさい」


 だがシャイードは一歩下がって、彼女の手を片手で払った。


「アルマを見つけたら帝都に向かうさ。今のところは、な。……話は終わりだ」

「!? どうして……」


 メリザンヌは驚愕する。当たり前のように従うはずのシャイードが、いとも簡単に反抗したのだ。

 慎重に何度も重ねがけした魅了の術が、何故か完全に解けている。

 シャイードは驚く魔女に不審げに片眉を上げた後、興味を失い、海を見つめた。


 ◇


 氷結を免れた帆船に、氷の切れ目まで小舟を往復させてもらい、人を運ぶ。

 アルマの氷も端の方は薄くなっていたので、移動は慎重に行われた。

 船長は可能な限りの積み荷を移したがったが、氷が溶けるまでどれくらいの猶予があるかは分からない。それに、足下の氷が溶けるよりも早く、ビヨンドが動けるようになる可能性もあった。

 結局は失う富よりも、得体の知れない怪物への恐怖が打ち勝ち、彼らは速やかに移乗を完了させた。


 氷の上に残ると言い張るシャイードを、船員や兵士たちの一部は善意から説得しようとした。

「友達のことは残念だけれど」「気持ちは分かるが……」「君まで死ぬことはない」

 どれも的外れだったので、シャイードは何も言わずに背を向けた。


(アルマは友達ではないし、俺の気持ちは誰にも分かるはずがないし、死ぬ気はない)


 意外にも、セティアスはそんな説得を一切口にしなかった。彼は声を弾ませ、「友の為に命を賭ける……、おお、なんと美しい友情! 英雄はそうでなくては!」と背後でシャイード讃えた。その顔が幾分青ざめていたことに、後ろを向いたシャイードは気づかぬままだ。


 不意に、背中に温もりが覆い被さる。

 驚いて首を巡らせると、メリザンヌだった。


「や、やめろ。俺から離れろ」


 ふりほどこうとしたが、思いのほか強い力で抱きしめられている。背中に、なじみのない柔らかさが触れていた。

 首筋に、温かな息が吹き掛かる。


「気をつけてね、私の可愛い子。貴方が強いのは知ってるけれど、同時に弱いことも知ってる。……私、帝都で貴方を待っているわ。ずっと」


 普段は甘く鼓膜を奮わせるその声が、今は少し震えていた。

 本心から心配しているように聞こえる。だからシャイードは、「弱くなんかねぇ」という反抗の言葉を喉元で失ってしまった。


「………。何でそこまで俺に……」


 代わりに疑問が喉を突いた。最後まで言えなかったのは、それが愚問だと気づいたからだ。

 彼女はシャイードがドラゴンであることを知っている。その上、帝国へ国宝のドラゴンを連れ帰る使命を帯びているのだから。

 魔女は長く沈黙した末に、身を離した。怪訝そうに見つめるシャイードに謎の微笑みを送り、赤い唇の前に人差し指を立てる。


「貴方は私の、……特別だから」


 芝居ががかった仕草だ、とシャイードは思う。魔女はもう、いつもの仮面をかぶってしまった。


 移乗作業の間に風が戻り、雲が流れてきていた。シャイードは小さくなる船影を、少しの間だけ見送る。

 小舟を置いていったのは、彼らの優しさだ。

 大破した元の船にも小舟はあったのだが、出来れば氷が溶ける前に思い直して逃げて欲しかったのだろう。


(俺とて、氷が溶けるのを待っている気はない)


 船影が見えなくなれば元の姿に戻り、海に潜るつもりだった。

 身体が大きくなれば、相対的に海は浅くなる。息継ぎは当然必要だが、より深くまで潜ることが出来るし、フォスがこちらを見つけやすくもなるだろう。

 シャイードは楽観的だった。周りに人が居なくなったおかげで、意識下にずっと感じていた重圧がなくなって気持ちが大きくなる。自由を肌で感じ、力がみなぎる気持ちさえした。


(独りなら何とでもなる。大抵のことは)



 異変に気づいたのは船室に置いてあった荷物とクロスボウを小舟に向かって運び出しているときだ。シャイードは立ち止まり、大きく目を見開いた。


「……光だ」


 氷が、広範囲にうっすらと発光している。フォスのものではない。

 見上げれば、雲が満月をすっかり覆い隠していた。それは月光で分からなくなるほどの、とても微かな光だった。

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