変化したもの
「なんで……って、そりゃニンゲンとの争いで」
「そこだ」
悔しげに口にするシャイードに対し、魔導書は上から彼を指さした。
「本来のドラゴンが、ニンゲンに負けるはずがないのだ」
「!? どういう……」
「考えてもみよ。圧倒的な体格差。比類なき力と魔法すらもはじく鱗、すべてを焼き尽くす炎。天翔る翼。歳経るごとに狡猾さを増す知性――。短命にして力弱きニンゲンが刃向かったとして、どこに活路があるというのだ」
「それは……、そうだが、ドラゴンは数が少ない。ニンゲン達はいつも、数の力でドラゴンを凌駕するんだ」
「違うな」
アルマは短く言って、再び首を振った。
「ドラゴンは、弱くなったのだ。いや、ドラゴンだけではない。原初より存在するありとあらゆる幻獣達がすべて、弱くなってしまった。ニンゲン達が招き寄せた厄災によって」
シャイードは目を丸くした。
「厄災がどうして幻獣達だけを、……あ…、魔力か!」
「うむ。ビヨンドの存在は本来、この世界とは相容れぬ異質なものだ。太古の昔より世界に遍く循環していた魔力だが、ビヨンドの招来からこの方、膨大な魔力が消え失せた。湯桶の栓を抜いたかのように、徐々に、確実にな」
「そうか……。それによって、幻獣は生きづらくなってしまったのか」
古い生き物である幻獣は、魔力と共にある。いわば、魔力は第二の酸素のようなもので、自然に身体を巡っているのだ。
それが急激に減少したため、幻獣は弱り、数を減らした。
魔力に依存しない生き物である人間が、相対的に強くなったのだ。
「時を止める魔法そのものが遺失したわけではない。高度な魔法ゆえ、使える者は非常に少ないだろうが効力を発揮はする。だが局所的に、数秒から数分の時を止めるのが精々になっている。魔法王国の時代とはわけが違うのだ」
「そんな……」
「魔法王国の時代でさえ、厄災を消滅させることは出来なかった。膨大な魔力を集めて魔法を極限まで拡大し、厄災の時を止め、時間を稼ぐことしか出来なかったのだ。それでもおそらく、当時の魔術師達が知恵を絞って協力していたなら、何らかの方法を生み出せていたかも知れない。厄災はもう、この世界の憂いではなかったかも知れない」
「……何故、ニンゲン達はそうしなかったんだ。まだ、その時になら今よりは魔力も沢山あったわけだし、強い魔術師も沢山いたのだろ? 何とか出来たかも知れないじゃないか!」
アルマは寝返りを打った。ハンモックの上でうつぶせになると、シャイードと正面切って向き合う形になる。
「無論、彼らはそうしたのだ。ともあれ、最初の内はな? だがシャイードよ、汝も知るとおり、彼らの寿命は長くはない。当面は去った危機より、差し迫った危機に対処しなくてはならぬことも多かった。戦争や疫病、飢饉に反乱。幸いにも、時を止める魔法は1000年にわたって持ちこたえたのだ。ニンゲンのうち、誰が1000年後の世界を今の自分の一生より重要に考えるであろう?」
「それは……、そうかもしれないが、そもそもがニンゲン達の招いた事態だろう!? こんな、後にそのツケを先送りするようなこと……」
「ニンゲンだけを責めることは出来ぬぞ。汝ら種族とて彼らを邪魔したのだ」
「そんな馬鹿な! いや、……人竜戦争か」
アルマは頷く。
「ドラゴンの炎が今、街に迫っている時に、誰が1000年後の心配をする?」
シャイードはぐうの音も出なかった。
人竜戦争は初期にはドラゴンが各地で圧倒的な勝利を飾った。厄災によって既に機能不全に陥っていた魔法王国は、まとまった抵抗も出来ずに完全に滅亡する。世界は再び混乱の渦にたたき落とされ、人間の文明レベルは大きく後退した。
続く数百年、人々が生活を立て直し、密かにその爪を研いでいる間、ドラゴンは我が物顔で悠々と空を飛んだ。最後に手痛い反撃を喰らうこととなるとは夢にも思わず。
人とドラゴンは協力できなかったのかと、今を生きる自分は簡単に考えるけれど、それは結果を見て振り返るからそう思えるのだ。
互いに憎しみの渦中にいた彼らに、手を取るという選択肢はなかっただろう。いや公平に言うなら、中にはそう主張する賢者がどちらの側にもいたはずだ。けれど多数派ではありえず、その声は容易く押し流されてしまったに違いない。
ともあれ歴史はそう教えている。
過去を遡れば、いつだって物事はとても単純に見える。どうしてこの選択肢が取れなかったのか、と愚かさを笑うことも出来る。
だが時代の渦中にいる者には見えぬもの・見ようとせぬものがあるものだし、染みこんだ偏見や、空気感という動かしがたい縛りがあるのだ。
(でもだからと言って、どうして俺がそのツケを払わなくちゃいけないんだ!)
一度は飲み込んだ怒りが、理不尽さが、ふつふつとわき起こる。それは決して消えたわけではなく、言葉通り飲み込んだだけなのだ。
(元はといえば師匠だ。どうしてサレムは、自分一人で重荷を背負おうとした? それだけの力があったから? 何とか出来るという確信があったから?)
シャイードの真上には、アルマの顔がある。
(師匠が喚び寄せたビヨンド、か)
「お前が鍵なんだ。……多分」
アルマは無表情のまま、目を細めた。
◇
翌日。
追い風を受けて、船は良く進んだ。波は昨日よりは幾分高かったが、警戒するほどではない。
内海を西に進むにつれ、左舷遠方に時折島影を見るようになる。
以前は海賊が根城にしていた海域だと言うが、ザルツルードが帝国へ恭順の意を示して後、定期的に帝国海軍による討伐が行われるようになった。
海賊達は捕らえられ、ある者は処刑され、ある者はそのまま海軍へ召し抱えられた。残った者たちはいずこかへ離散し、或いは現地で今も息を潜めている。
「まぁ今ンとこ、帝国に従ったのは悪い選択じゃァなかったと、俺ァ思うね」
マストのロープを引きながら、潮焼けした片頬をゆがめて年配の船乗りは言う。これでも笑っているようだ。
「そうそ。俺らにとっちゃ、海の平穏が一番ありがてぇもんさ」
隣にいた壮年の船乗りもそれ続き、違ェねぇ、と周りから同意の声が集まった。
シャイードはアルマに促され、甲板に出ていた。海の色は深みを増している。
併走する他の商船も、帆を膨らませて波の上を滑るように進んでいた。
(平和だな)
海鳥が時折羽を休めに船の縁に止まる。
羽繕いをするそれらをぼんやりと見つめながら、シャイードはアルマが船員達と話すのを聞くとはなしに聞いていた。
その時、船長が船尾の船長室から現れた。
船員達はおしゃべりを止め、わざとらしいほどに忙しそうに動き始める。
船長は甲板を睥睨した後、ゆっくり歩いてきた。
シャイードは船長が、僅かに片足を引きずっていることに気づく。
海鳥が飛び立った。
船長は片手に、深い緑色の酒瓶を持っている。
シャイードとアルマには一瞥をくれたが、特に興味もなさそうに通り過ぎて船首へ向かった。そして犬歯でコルクを引き抜いて酒瓶から酒を海へ注いだ。
赤い液体が、紺碧の海へと消えていく。
その後船長は、しばらく船首で頭を垂れていたが、空の酒瓶を持ったまま引き返してきた。
「どうして酒を捨てたのだ?」
船長が近くを通りがかったとき、アルマが突然尋ねた。
船長はめんどくさそうにアルマを横目で見た後、肩をすくめる。
「今日は大潮なんでな。慣例に倣って海神に航海の平穏を願ったのさ」
「ほう。海神は酒が好きか?」
「海にはねぇもんだから、好きだろ。多分な」
まだ何か聞きたそうな魔導書に向けて、船長はたくましい片手を振って一方的に会話を打ち切った。
アルマは舷側に張り付くと、身を乗り出して海を覗き込む。
「落ちるなよ? 助けられねぇぞ」
「うむ」
帽子を片手で押さえ、アルマは何かを探すように視線を巡らせた。おおかた、注がれた酒の色でも探しているのだろう、とシャイードは見当をつけ、何も問わない。
「何か、変な感じがする」
しばらく海を観察した後、アルマが身を起こして言った。
シャイードは聞きとがめ、彼の方を見て片眼を眇める。
「何だ? ビヨンドの気配か?」
アルマは口元に手を添え、何かに耳を澄ませた。
「分からぬ。まだ遠いのやも」
シャイードが寄りかかっていた舷側から背を離すと、アルマはまっすぐに主を見た。
「しばらくは警戒が必要だ」
「わかった」
何事もなければ良いが、とシャイードは海を見たが、彼も何となく嫌な予感を覚えていた。




