出航
夕刻。
太陽は既に半ばまで海へと溶け、その色を海面に上書きしていた。複雑に重なり合った雲の合間からは、光芒が四方に放たれている。光にどれほどの色が隠されているのかを、世界に向けて知らしめていた。
一方、東の空からは夜を飾る星々が一つ、また一つと姿を見せ始めている。
それらを率いる軍団長は、満月に近い明るい月だ。太陽ほどの派手さはないが、白と紫紺のコントラストは静謐な美しさを感じさせた。
再び港に戻ったシャイードとアルマは、メリザンヌと共にサンターク号の船上にいた。兵士の数が三分の一になっていたので理由を尋ねると、残りは既に陸路で帝国へ向かったという。
メリザンヌは彼らに別の任務があるらしいことを匂わせた。
出航を待つ間、船の縁に肘を突いてぼんやりと日没を眺めていたシャイードは、背後から肩を叩かれて振り返る。
そこに立っていたのは吟遊詩人のセティアスだ。旅装をしている。
「また会えたね、ドラゴンくん」
「シャイードだ! 名前、教えたよな!?」
「おや、そうだったかな。ドラゴむぐ」
再び言おうとした彼の口に手を当て、黙らせる。シャイードは辺りの様子を伺った。みな、せわしなく動いており、彼らのやりとりを気にする者はいない。
息を吐いて肩の力を抜くと、セティアスが間近から不審の目で見つめていた。シャイードはきまりが悪そうに手を離す。
「俺をド……、っ、あんなものの名で呼ぶな」
自分の種族をあんなもの呼ばわりすることに強い抵抗を感じ、腹の前で握り拳を作りながら悔しそうに言った。
その様子を観察したセティアスは、何かを察したように頷く。
「ドラゴンが嫌いなんだね」
誤解をさせたようだが、シャイードは答えない。その方が好都合だ。
沈黙を肯定と受け取り、セティアスは両腕を広げた。
「大丈夫。ドラゴンはもう、この世界にはいないから。少なくともこの大陸にはいないからね」
「そんなの分からないだろ」
少なくとも俺がいる、と心の中で思いながら、シャイードは反論した。セティアスは首を傾げる。
「謎だなぁ。一体君はドラゴンに、いて欲しいのかい? 欲しくないかい?」
「アンタに関係ないだろ」
「なんともミステリアスだね。気になるよ」
セティアスは背負っていたリュートを肩から外すと、胸の前に構えた。何度か爪弾いては弦の張りを調整し、和音を鳴らした。シャイードのマントの下で、フォスがもぞもぞと動く。
「さて今はこの通り、相棒も一緒。どうかな、一緒に真実探しでも?」
「知っていたのか?」
シャイードは問いかけには答えず、別の問いを投げかける。主語も何もない不完全な問いだったが、セティアスは意味を理解した。微笑みながら首を僅かに傾ける。
「機会はきっとある、って言っただろう? ちょっと帝国までね、メリザンヌ女史をエスコートするのが今の僕の仕事さ」
「エスコート、ね……」
「長い船旅、この春告鳥が、襲い来る退屈を見事追い払ってみせましょう」
胸に手を当て腰を折る吟遊詩人を流し見て、シャイードは片顔で笑った。
「言ったな? せいぜい俺を楽しませろよ。気に入れば駄賃をはずんでやる」
「ご期待を。――おや、そういえば、君の相棒はどこにいるんだい?」
口調を素に戻し、吟遊詩人はアルマの姿を探す。シャイードは船の縁に背を預けた。
「アイツなら、荷物の積み込みを見てる。何が面白いんだか……」
「噂をすれば、戻ってきたようだよ、君」
セティアスの視線を追うと、魔導書がのんびりと歩いてくるところだ。
「ならそろそろ出航だろ」
シャイードはつまらなそうに鼻を鳴らし、再び海の方を向いてしまった。
「そのようだね。やあやあ、黒ノッポの君!」
セティアスは大きく手を振る。魔導書が顔を上げた。
吟遊詩人の手が空中で止まる。彼はゆっくりと手を下ろしたと思うと、歩いてくるアルマににじり寄った。
アルマを通せんぼするように目の前で止まり、まじまじと顔を覗き込む。アルマは平坦な瞳で吟遊詩人を見返した。
「なんてこった!」
「ひとでなしめ?」
「!」
「汝はもしや」
「君、どこでその言い回しを? いやそんなことより、黒ノッポくん。君は一体何者だい? 僕にもっと良く顔を見せておくれ」
「断る」
アルマは顔に手を伸ばしてくるセティアスを無視し、彼を押しのけてシャイードの方へと向かった。
「後生だよ、黒ノッポくん。僕の心は震えた。この震えを、すぐにでも歌にしなくてはいけないんだ。ああどうしよう、言葉があふれて喉に詰まる。窒息してしまいそうだ」
吟遊詩人がリュートをかき鳴らすと、アルマは振り返った。
「歌を聴きたい」
「え?」
「歌を聴かせてくれれば、顔をよく見ても良いぞ」
「僕の歌を? ああ、それなら、もちろん良いとも!」
そろそろ人間たちのアルマに対する反応を見慣れてきたシャイードは、一連の流れには反応せず、興味なさそうに前を向いたままだ。しかし船室へ引き払おうともしない。
アルマは主の隣で、船縁に背を預けた。
吟遊詩人は咳払いをし、リュートの弦を爪弾く。幾つかの出だしを奏でてみつつ、「どんな曲がお好みだい? 黒ノッポくん」とアルマに尋ねた。
「ふむ。情報の多い曲が良いぞ」
「情報? はは、変な注文をするね。さて、何をもって情報としよう」
曲の速さ? 長さ? と呟きながら、幾つかの心当たりを思い浮かべているらしきセティアス。やがて彼は、一つの曲をこれと定めたらしい。
「では麗しの君に。『妖精王と悪魔』の物語を捧げよう」
太陽は海に完全に溶けてしまい、世界からは刻々と色が失われていく。甲板に立った吟遊詩人の色とりどりに染められた髪も、オレンジ掛かった暖色から冷たい色へと変化していた。
曲の始まりと共に、シャイードのマントの下からフォスが現れる。人が沢山いるところでこんな風に出てくるのは珍しい。フォスは自由に飛び回ったりはせず、シャイードの周りをふらふらと飛んだあげく、頭の上に乗っかって光を弱めた。
静かにしているからそこにいさせて欲しい、と言っているようだ。
吟遊詩人は光精霊の姿に一瞥をくれた後、かすかな笑みを口元に浮かべた――ように見えたが、すぐに手元に視線を落としたので定かではない。
その時、それまで静かだった空気が、再び動き始めた。
陸から海へ。
遠慮がちに吹き始めた陸風は、一吹きごとに勢いを増していくようだ。船の帆が膨らんだ。船体が、息を吹き返した生き物のように揺れる。
宵の追い風を受け、船は岸を離れ、内海へと舳先を向けたのだった。




