定義
鐘の音が鳴り響き、シャイードは物思いから現実に引き戻された。
思い出が温かければ温かいほど、胸を刺す痛みは鋭い。奪われた幸せ。失ったかけがえのない時間。戻らない大切な者たち。まばゆい光の影は濃く、影は容易く人間への憎悪を呼び起こしてしまう。
シャイードは大きく深呼吸して、肺の空気を入れ換えた。
アルマがこちらに向かって歩いてくる。子どもたちは、後ろで手を振っていた。
「もういいのか」
「うむ。氷鬼については学び終えた。興味深い遊戯であった」
「そうか」
魔導書は相変わらずの無表情で、今まで遊んでいたとは思えない。髪が若干、乱れているだけだ。子どもたちに後ろから引っ張られたりしていたからだろう。
シャイードは木箱から飛び降り、歩き始めた。
「帽子。目深に被っとけ」
「目に入る情報が減って、良くないのだがな」
「なら、もっと普通の見た目になれば良かっただろ」
「普通だぞ。色は再現できぬが、この年頃のニンゲンの平均的な容貌になっているはずなのだ」
「嘘つけ」
嘘は言っていない、と魔導書は抗議したが、この件に関してはシャイードも全く信じられなかった。
美しさは長所であり、美しいということはそれだけで大きなアドバンテージをもつ。そこに異論はないだろう。
だがその一方、美しすぎるものは災難をも呼び込むものだ。宝石がそうであったように。
(それとも……、逆なのか?)
彼は隣の異形を見上げる。アルマは主の言いつけを実行し、帽子を目深に被って足下を見ながら歩いている。時々顔を上げ、前方の様子を確認してまた視線を落とす、という動きを繰り返していた。
(災いを成すものだから、人はこいつを美しいと感じるのだろうか)
人間ではないシャイードさえ、アルマの容姿は客観的にとても美しいと感じている。けれどもそれ以上に、恐ろしい存在だという初対面の印象をぬぐえずにいた。
アルマの行動は、確かにいろいろと非常識ではあるが、人やシャイードに害をなすものではないように思えるし、今のところは何も怖がる要素など見られない。
にもかかわらず、本能は気を許すなと警鐘を鳴らすのだ。アルマがビヨンドであることと無関係ではないだろう。シャイードはそれを、どう受け止めて良いのか迷っている。
信頼すべきか、そうでないか。
「どうした? 我の顔をじっと見つめて」
不意にこちらを向いた瞳に、シャイードの心臓は跳ねる。
深い底なしの闇を秘めたその瞳が、シャイードを捉えていた。シャイードは視線を逸らす。
「別に。俺の勝手だろ」
「我は告白されたぞ」
「告白? 何の」
「告白では伝わらぬのか。求婚? つまり、結婚して欲しいと言われた」
「はあっ!?」
シャイードは素っ頓狂な声を出して立ち止まった。アルマは二、三歩遅れて立ち止まり、振り返る。
「誰にだよ」
「先ほどの子どもの1人に」
シャイードはさらに目を丸くした。隣に追いつき、魔導書の袖を引っ張って耳を傾けさせる。
「おい。当然、断ったんだろうな?」
「そもそも相手方の『大人になったら』という条件を満たしておらぬゆえ何も。それでも、我は汝の所有物であるから、勝手に判断は出来ぬ。故に『シャイードの許可が必要だ』との前提条件については述べておいた。それで良かったか?」
シャイードは目眩を感じ、瞼に片手を当てて天を仰いだ。
それから息を吐き出し、アルマをまっすぐに見つめる。顔の前に人差し指を立てた。
「いいか? 許可は絶対にしない。今後、同じようなことを誰かに言われたら、全てその場で断れ。いいな?」
「了解した」
アルマはすんなりと受け入れた。
(もし許可したら、申し込まれるがままに誰とでもあっさり結婚しそうだな、こいつ……)
分かっていたことではあるが、次から次へと、よくもまあ非常識が舞い込むものだと思う。
子どもの方は、夢見がちな憧れで結婚という言葉を口にしただけだろう。数日後には別の子と将来の約束をしているかもしれない。
「大体なぁ、お前、結婚とか……。意味を分かって言ってるのか?」
「意味は知っている。結婚とは、夫婦になることである」
「なら夫婦になることがどういうことか分かるか?」
「夫婦とは、結婚した男女のこと……。む、定義が堂々巡りになっているぞ」
「おおかた辞書でも引用したんだろ。本の知識だけに頼るからそうなる」
やれやれ、とシャイードは片手を上げた。道の端に寄り、歩き始める。
正直、どこに向かっているのかも分からずに歩いていた。アルマも追従する。
「ほう。つまり汝はよく分かっているのだな。教えてくれ。どういうことなのだ?」
「へっ!? い、いや、それは……」
「勿体ぶることはなかろう。詳細を教えるのだ。知っておるのだろう? それとも知らぬのか?」
「し、知ってるに決まってる! それくらい」
シャイードとて、結婚の意味を知らないわけではない。だが、いざ説明しようとすると難しかった。ふわっとした理解はあるのだが、それを型にはめようとするとまるで別のものになってしまう気がするのだ。
言葉に詰まったままの主に、教えろと魔導書はなかなかしつこい。
シャイードは両手を胸の前であれこれ形にしてみながら、自分の思考もなんとかまとめてみようと試みた。
「ニンゲンのそれでいえば、何というか、こう……。人生を、一緒に歩むこと、とか?」
「どこに向かって?」
「ど、どこ!? ああー……、そうだなぁ。なんか、その、幸せ? っぽいような」
「ふわっとしすぎている」
「……うぐっ」
自分でも分かっていたことを指摘されて、シャイードは反論の手立てを失った。
アルマは顎に軽く握った拳を添えた。その肘に、逆の手を添えている。
「誰しもが普通に行っているはずの結婚の定義が、何故出来ぬのだ。シャイード」
「偉そうに上から言ってるけど、お前もだろ!」
「我は知らなくても仕方あるまい。本は結婚などせぬ。だが、汝らはするであろう? そもそも汝の目的も、結婚ではないのか」
「違う! ……と、思う……。――いや、そうじゃない。論点はそこじゃない」
シャイードは首を振った。
「お前が結婚しては駄目なのは、結婚したらその相手と一緒にいなくてはいけなくなるからだ。つまり俺を手伝えなくなるだろ。お前の制約に反するだろうが!」
「なるほど。理解した」
アルマはあっさりと手を打ち合わせた。
「実際に結婚をしてみれば、その理解も早かろうが、制約に反することは出来ない。結婚の詳細については、今後も観察によって分析していくことにする」
「そーかよ」
勝手にしてくれ、とシャイードは片手を振った。
「ところでシャイードよ。結局、橋を渡るのか?」
「へ?」
アルマの指し示す方を見遣ると、北側の町へ繋がる橋が遠くに見える。
いつの間にか、川に沿って橋に向かっていたらしい。
「あー……」
シャイードは後頭部に手を当てて、前方の橋と、後方の港を見比べて考える。出港までにはまだ時間の余裕がありはしたが。
「いや、止めておこう。帰るぞ」
「そうか」
アルマは異を唱えなかったが、シャイードがきびすを返して戻っていくのに一歩だけ遅れた。




