海乙女の真珠亭
位置と外観だけ確認して通り過ぎた『海乙女の真珠亭』に戻ってきたときには、既に陽は海の向こうに完全に没していた。
「全く。お前がいつまでもぐずぐずしてるからだぞ」
「我はぐずぐずなどしていない。海の色の移り変わりを観測していただけだ」
「それをぐずぐずって言うんだ!」
腹いせに、つい勢いよく扉を開く。
しまったと思ったが、内部の喧噪はそれ以上で、誰もシャイードのことを気に掛けはしない。
いや、一人だけ。
「お二人ですかー? 今ちょっと、席がいっぱいで」
両手にトレイを掲げた若い給仕だ。
シャイードは「あ、いや。俺たちは宿泊客だ」と告げる。酒場の中を見回すが、メリザンヌの姿はない。
給仕は「ああ」と頷き、奥のカウンターを顎でしゃくる。
「お泊まりはあちらで、宿帳に記入してください。それから二階へ」
近くから呼びつけられ、はいはーい、と返事して給仕はきびすを返していく。
「仕方ない。夕飯はもう少し後にしよう」
シャイードはアルマを見上げ、肩をすくめた。ついでに彼の三角帽子の鍔を深く下ろしておく。
「……前が見えぬ」
「俺の靴の踵でも見てろ」
指定された部屋は、二人部屋だった。ベッドが二台置かれている。窓際の書き物机の上に置かれたランプが、室内をほのかに照らしていた。
机下にはシャイードの荷物が一式、置かれている。着替えなどが入った旅用のバックパックとクロスボウだ。
「あ、そうか。一人部屋でいいとメリザンヌに伝えておけば良かったな」
シャイードはマントの留め金を外し、椅子に向けて脱ぎ捨てた。中にいたフォスが、慌てて外に出てくる。
光精霊はそのまま室内をふわふわ漂うが、黒い魔術師姿の傍へは決して寄ろうとしなかった。アルマが動くと、逃げるようにランプの隣に身を潜めてしまう。
「まあいいか。俺が払うんじゃないし。折角だから、二台をくっつけて広々眠るかな」
アルマはシャイードが眠るとき、魔導書の姿に戻っている。
馬車旅の間はそうもいかなかったが、個室であれば彼が本に戻っている方がお互い楽だ。
シャイードが片方のベッドに手を掛けると、アルマは彼の背後に立った。
「一人部屋で良い理由を問われるのではないか」
「そりゃお前が……、ああ、そうか。言えないな。――よし、っと」
メリザンヌにはまだ、アルマが魔導書であることを話していない。帝国兵をそう簡単に信用はできなかった。まして彼女とは知り合って日が浅い。
シャイードはベッドをくっつけ、横からその真ん中にダイブした。
「ふはっ。広い! 王にでもなった気分だ!」
笑いながら両手をいっぱいに広げ、清潔なシーツの香りを胸に吸い込む。ランクの高い宿のようだ。
アルマはそのまま、ベッド脇に立っている。
「汝の王の定義は、広いベッドなのか」
「知らねーけど。こんくらいは広いベッドに寝てるだろ、きっと」
シャイードはベッドの上で一回転し、仰向けになってから上体を起こした。ブーツを脱いでベッドに足を乗せる。
アルマが急にうずくまった。
「……どうした!?」
うずくまったまま動かない彼を見て、鋭い誰何と共にシャイードは胡座から片足を立てる。
何か異変を察知したのか、急に魔力が尽きたのか、水に濡れてから風に当たったせいでどうかしたのかと、一瞬でいろいろ考えたのだが。
アルマはシャイードのブーツを手に立ち上がった。帽子の鍔が下がったままで、その表情はうかがえない。
「汝の靴の踵を見てる」
「………」
「………」
奇妙な沈黙が流れた。
シャイードはベッドに立ち上がり、アルマの帽子の鍔を持ち上げる。
深淵を秘めた視線は、その手の中の靴の踵に注がれたままだ。
「………。で? いつまで見てるつもりだ」
「我に聞くな。見てろと言ったのは汝だぞ?」
シャイードは彼の手からブーツを取り上げると、無言で部屋の入口扉に向けて投げた。靴底が扉に辺り、重い音を響かせて床に落ちる。
「あ」
「やめーい」
追いかけようとしたアルマの三つ編みをつかんで制止する。アルマは予想外のところから掛かった力でバランスを崩し、背中からベッドに倒れ込んできた。
「うおっ!?」
シャイードは巻き込まれ、彼の下敷きになってしまう。
「踵が」
「お前、わざとか!? 絶対わざとだろう。早く退け」
「そうしたいが、汝が我の髪を踏んでおる」
「私の可愛い子、もう戻って……、あら?」
突然扉が開いて、メリザンヌが顔を覗かせる。つなげて広くしたベッドの上で、起き上がろうとするアルマと彼をどかそうともがくシャイードが絡み合っているのを目撃した。彼女のスミレ色の瞳が、ぱあっと輝いた――ようにシャイードには見えた。
「あらあらあら! まあ!」
「アルマ、お前、鍵!」
「汝が」
「ごめんなさい、お楽しみ中ね。また後に」
「ちょっと待ったーーーっ!!」
ひらひらと手を振って立ち去ろうとする魔女を、悲鳴のような声でシャイードは引き留めた。
◇
「……ってわけで、別に、アンタが想像するようなことじゃないからな!」
「あら、そうなの? うふふ。それで? 私の想像するようなことって?」
「いや、その、……それは、」
シャイードは真っ赤になって瞳を泳がせる。
「なあに? 具体的に言って貰わないと、私、わからないわぁ……? 具・体・的・に!」
魔女は胸を抱えるように腕を組んだまま、上半身をよじらせた。
「くっ……!」
シャイードは、立ち去ろうとした魔女を呼び止めて、マントをどかした椅子に座らせていた。自分はベッドに座ったままだが、アルマは傍に立たせている。
先ほどの光景はちょっとした事故の結果であって、何かを意味するものではない、と説明をしたのだが、魔女は唇からにやにや笑いを消さないのだ。
分かっている、とでも言うようにしたり顔で時折頷くのだが、シャイードが思うに絶対に誤解している。
「だって、……ねぇ?」
メリザンヌはくっつけられたベッドに意味ありげな視線を落とす。
「それは……、ぐっ……」
この理由を説明しようとすると、アルマがベッドを使用しない理由を説明しないわけにはいかない。
「大丈夫よ、こう見えて私、そういうことには寛容なの。隠すようなことでもないわ? むしろ尊いことよ。ねぇ、アルマ?」
「うむ?」
アルマは意味も分からぬままに、名を呼ばれて応える。
「で? どっちが下なの?」
「下、とは」
「やあねぇ、すっとぼけちゃってぇ!」
彼女は笑いながら、胸の前で手をぱたぱたさせた。
「眠るときのことに決まってるでしょ。ベッドの上で、どっちが下に寝てるの?」
「……ああ。それなら我が下だな」
「まあっ、そうなの!?」
メリザンヌの意外そうな声に、アルマの「枕の」という続く言葉は重なってかき消されてしまった。
「あらあら、そうだったのねぇ? ふぅん? この子の方がねぇ……?」
メリザンヌは口元に手を当てて、シャイードを振り返るとじろじろと見つめた。意味深な視線だ。
シャイードははあ、と大きなため息をつく。
「もうどうでも良くなってきた。好きに受け止めてくれ……。ただしそれは、全部アンタの妄想でしかないがな」
がっくりとうなだれて片手を振り、匙を投げる。
魔女の脳内で何が展開されているのかシャイードには知る由もなく、知りたくもなかったが、考えてみれば彼女が何を誤解していようとさしたる問題はない。
それよりも、下手に説明を試みて、アルマが魔導書であるとばれる方が問題に思えた。
もしかしたら魔女は、最初からそれが狙いで誤解を装っている可能性すらある。
そんなシャイードの思考を読んだように、魔女は手を下ろした。
「あーらら。失敗しちゃったかしら? あん、あの美形さんの秘密を、上手く聞き出せるかと思ったのにぃ」
メリザンヌはアルマからシャイードに視線を移し、唇をとがらせて肩をすくめた。シャイードは鼻を鳴らす。
「その割に、随分楽しそうだったがな」
「折角ですもの。会話は楽まなくっちゃ! そうでしょ?」
「俺は疲れただけだ」
「うふふ、それは私の力不足ね。ごめんなさいだわ。ああ、そうそ!」
彼女は豊かな胸の前で両手を打ち合わせる。
「出発のことを話しに来たのよ。船は明日の夜に出航する予定になったわ。『サンターク号』。港の場所は分かる?」
「明日の夜か。それまで自由だな。なら先に一度、港の方にも足を向けてみようと思うが」
「それが良いわね。折角面白い町に来ているのだもの」
話は終わりらしく、魔女は立ち上がった。扉に向かい、そこに落ちているブーツを拾い上げて首を傾げる。
「貴方たちも楽しんでちょうだい。……でもアノ声は、控えめにね!」
全部聞こえちゃうわよ、と唇に指を立てて言い、彼女はブーツをシャイードに向けて投げた。扉が閉まる。
シャイードはブーツを受け取った後、とどめを刺されたようにゆっくりとシーツに突っ伏した。
嵐が去り、静寂の戻った室内で、アルマが主の後頭部を見下ろして口を開く。
「泣くな、シャイード」
「……泣いてねぇわ!」




