酒場の父娘 2
シャイードが身支度をして階下に降りると、厨房から「駄目だ!」と怒鳴り声が聞こえた。
アイシャは早速、義父に直談判したらしい。
「危険だ」とか、「死ぬに決まってる」と荒々しい声が言うのに対し、少女の抗いはか細い。
「でも」「だって」「シャイードが」と。
やりとりはシャイードに、濁流にもまれる小舟を連想させた。
自分の名が挙がっていることで、とばっちりを予感した彼は足音を消して酒場へ向かおうとする。
「おい、シャイード!」
だがバッチリと店主に見つかり、荒々しく名を呼ばれた。店主は娘をそそのかした小僧が下りてくるのを待っていたのだ。
二階から酒場へ行こうとすると、どうしても厨房の前を通らざるを得ない。
足音を消しても姿が消えるわけでもなし。待ち伏せされるとどうしようもない。
(天井の梁を伝えば良かったか?)
シャイードは天を仰ぎ、猫のような行動を想像したが、時既に遅し。
彼は観念して立ち止まった。
どすどすと重い足音を立てて店主が廊下に出てくる。そしていきなりシャイードの胸ぐらをつかんだ。
「てめぇ、俺の娘に何吹き込みやがった!? 返答次第では100枚におろす! いや、おろし金ですりつぶす!」
「やめて、お義父さん! シャイードは悪くないよ!」
体格の大きい店主の豪腕につかまれると、小柄なシャイードは簡単に足が浮く。
アイシャが店主の腰を後ろからつかんで、体重をかけて引っ張るがびくともしない。
「ぐっ……、がっ……!」
「ああ? 聞こえねぇぞ!!」
首を絞められて、息が出来ない。両手で店主の手をふりほどこうとするが、鋼鉄のようだ。
店主は興奮して我を忘れている。
(やばいな)
シャイードは眉根を寄せた。酸欠で、視界が狭まりつつある。危険だ。
(こうなったら、急所に蹴りを入れて、)
その時、ゴーンと派手な音がした。
首にかけられた手が緩む。
シャイードはその隙を逃さず、店主の腹を蹴って背後に飛び退いた。
「げほっ、…げほごほっ」
気道が確保され、急速に酸素が肺に入ってきた。シャイードは背を丸めてむせたあと、首に手を当てたまま顔を上げる。
店主が禿頭を撫でながら、背後を振り返るところだ。
背後には、フライパンを手にしたアイシャがいる。涙目だ。
「もう、いいよ! 乱暴なお義父さんなんて、嫌い!!」
「お、おい、アイシャ……。俺はただ……」
店主は我に返ったらしい。背を丸め、しどろもどろに言い訳をしている。
アイシャはそれをほとんど聞かずに、店主の脇をすり抜け、酒場へと走っていった。
彼女を呆然と見送った後、店主は大きなため息をついた。
そして足を引きずるようにして厨房へと戻っていく。
「悪かったな……、シャイード」
ぼそりと背中で呟く店主を追い、なんとなくシャイードも厨房に入った。
「まあ、いいよ。俺も悪かったから」
「あぁ? やっぱりお前が悪いのか!?」
肩越しに、低い声ですごまれた。
シャイードはむっとして眉根を寄せ、のど元を押さえながらにらみつける。
「アンタほどではないけどな!」
店主は無言で顔を正面に戻し、椅子に座った。
店主の身体に対し、椅子があまりにも小さくて、壊れるのではないかとシャイードはひやひやした。
が、椅子は何とか持ちこたえている。
今や店主の背中はすっかりと丸まっていた。
先ほどまでとはうって変わって、その身体が小さく見える。
シャイードは店主に近寄り、その背中をぽんぽんとたたいた。
「難しい年頃ってのは、あるんだよ」
「けっ。知った風な口をききやがって……」
受け答える言葉も、先ほどまでの勢いがない。店主は深いため息をついて首を振った。
「……こんなところに、連れてくるべきじゃなかったのかもしれん」
シャイードは何も言わず、食器棚に寄りかかって腕を組む。店主が次の言葉を継ぐのを待った。
「お前、いくつになるんだ、シャイード」
「……21だけど」
「そりゃあ……、小せぇな。俺ぁてっきり、アイシャと同じで14、5くらいだと」
「るせぇ」
シャイードにとって小柄なことと童顔なことはコンプレックスで、わかりやすく不機嫌になる。
その様子を椅子から見上げ、店主はぷはっと吹き出した。
「悪ぃ、悪ぃ」
少しも悪びれてない風に謝罪した。それからまた、深刻な表情に戻る。
「俺ぁさ、お前と同じで、若ぇ頃からあちこち流れて暮らしていたからよ。定住するってのが、どうにもまだ性に合わねぇ気がしちまうんだ。でも、あいつの両親は、……なんつうか、まともな人間でなぁ。町に住んで堅実に商売してたんだ」
「ああ。そうだってな」
「なんでぇ。知ってるのか」
「アンタからも少し聞いたし、アイシャからもな。彼女の父親とは、幼なじみだったんだろ」
んで? とあごをしゃくって先を促す。店主はふん、と鼻を鳴らして続けた。
「あいつは良い奴だったよ。死ぬには早すぎた。――ひとりぼっちになったアイシャは、孤児院か修道院に行く選択肢もあったんだ。俺は、……良いことをしたと、思ったんだがなぁ」
性に合わねぇ、と店主は再び口にし首の後ろに手をあてた。
「……、後悔しているのか。アイシャを引き取ったこと」
店主は考え込むようにしばし黙り込み、その後にゆっくり首を振った。
「いや……、そうじゃねぇな。後悔はしてねぇ。あの子はとても良い子だ。――本当は荒くれ相手の給仕なんざ、させたくねぇんだが、『ただでご飯を食べる人は、悪い人よ』つって手伝うことを譲らねんだ。実際、あいつに助けられてることも、確かなんだが……」
答えながら、考えを整理している様子だ。
「ただな。アイシャにとってどうだったんだ?」
なぁ、と顔を上げてシャイードをじっと見つめた。
小柄な男はひょいと肩をすくめた。
「俺に聞くことじゃ、ないだろ」
「まぁなあ。そりゃそうだ」
店主は自嘲する。「そうだわなぁ……」
沈黙が流れた。
シャイードは辛抱強く待つ。
「子どもは親を選べねぇって言うが……、アイシャは二度目の親を選ぶことが出来たんだ」
「………」
「そういやお前も、親はいねぇって言ってたよな」
「ああ」
簡潔に答えたきり、シャイードは黙ってしまう。今度は店主が、待つ番だった。
シャイードは黙ってそっぽを向いていたが、横顔に感じる視線に耐えかね、
「ああーっ! 鬱陶しい! 俺の話を聞いても仕方ないだろ。俺はアイシャとは年齢も性別も違うぞ。ニ……、生きてきた道も」
腕組みを解いて、片手を大きくなぎ払った。
「アンタ、傭兵時代は敵と渡り合ってきたんだろ? 窮地だって一人で乗り越えてきた。違うか? 逃げてないで、アイシャと向き合えよ。あいつに聞けばいい。『俺と来て良かったか』ってな。簡単なことだ」
「あ、……ああ」
店主は気圧されて身を引き、首に当てていた手を下げた。
「俺もそんなこたぁ、わかってんだけどよ……」
シャイードにも、本当はわかっていた。
店主はアイシャと歳も近く(と、思っていた)、仲の良いシャイードに、それとなく「父親」への思いを聞いてほしかったのだろう。
或いは、シャイードが既にアイシャから何か聞いていないか、探りを入れたのだ。
目論見はどちらも失敗に終わった。
シャイードは食器棚から背を離し、厨房を出て行こうとする。
最後に入口に手をかけて立ち止まり、店主を首だけで振り返った。彼は椅子に座ったままうつむいてじっとしている。
小さくため息をひとつ。
「アンタには世話になってるし、この店は気に入ってる。……だけど、俺はただの客だ。それ以上でも、以下でもない」
そのただの客が消えた後、店主は一人、くっくと肩を揺らしていた。