出立
翌朝。身支度と食事を終えたシャイードとアルマは、「酔いどれユニコーン亭」の前に立っていた。
メリザンヌは別の宿に逗留している兵士たちと合流し、雇い入れた馬車をここへ回してくる手はずになっている。
その馬車で街道へ出て、陸路で最寄りの港町へと向かい、そこからは船で帝国領へと移動する予定だ。
フォレウスは怪我が完治するまで、この地の施療院に留まる。彼自身は、今すぐにでも帰りたがったのだが、メリザンヌの許可が下りなかった。
シャイードにとってはその方が都合が良い。
敵対したこと自体もそうだが、その際に内面を素直に吐露しすぎて、面と向かうのは気恥ずかしかったのだ。
店の扉が開く音がし、シャイードはそちらへと視線を向けた。アイシャが出てくるところだ。
「シャイード、少し、いいかな?」
「アイシャか。何だ? もうすぐ馬車が来る。手短にな」
「ん」
ととっ、と早足にシャイードの前に立つと、アイシャは背後に隠していた片手を前に持ってきて差し出した。
「なんだ?」
シャイードが怪訝な顔をするばかりで手を出してくれないので、彼女は「もうっ! 気が利かない!」と言いながら彼の手を取り、握っていたものを落とす。
それは掌に収まるサイズの布袋だった。
細長い布を二つに折って両端を縫い合わせ、口を紐で窄めてある。いわゆる巾着型。口が簡単に開かないように、紐の根元は穴を空けた木の実のビーズで止められていた。
「なんだ?」
シャイードは同じセリフをもう一度言ってから、その布袋の匂いを嗅ぐ。
「おっ。なんか、良い匂いがする」
「サシェだよ! 私が作ったんだ。魔除けのハーブとか、好きな花とか、良い匂いの香木を入れて。お守り!」
「へえ」
紐で縛られた口を、シャイードは何の気なしに開けてみようとする。
「こらーー!!」
アイシャがその手をがしっとつかんだ。
「へえっ!?」
「開けなくて良いの! お守りなんだから、開けたら効果が減っちゃうよ!!」
「そう、なのか?」
「多分、そう」
多分、という言葉をつけた割には、アイシャは自信満々に頷いた。
それから彼女は、眉尻を下げてシャイードを見た。
「大事にしてね。時々匂いを嗅いで、わ……、この町のことも思い出してね」
「ああ」
「旅の間も、ちゃんとご飯食べて沢山寝るんだよ?」
「ああ。気をつける」
「……元気でね」
シャイードは無言で頷き、もう一度、サシェの匂いを嗅いだ後、脚衣のポケットに無造作に突っ込んだ。
彼女の頭に、手を置く。ぽんぽんと跳ねさせた。
「……まあ、なんだ。いろいろ、世話になった。お前も元気でいろよ」
「うん。『シャイードの部屋』も、いつも綺麗にしておくからね。いつでも帰ってきて良いんだよ!」
「やっぱ聞いていやがったか」
「へへ。……シャイード。ありがとね」
チッと舌打ちして顔をそらすシャイードに、アイシャはもう一歩、近づいた。
そして彼をぎゅっと抱きしめる。
「おいっ……」
「ちょっとだけ。お願い、言わせて。あのね」
「………」
アイシャはつま先立ちになって、シャイードの耳元に口を寄せた。
小さく息を吸い、大切な秘密を打ち明けるように、そっと口を開く。
「シャイードが例え何者でも、私、ずっとずっと、シャイードの味方だよ。忘れないでね!」
「アイシャ……」
シャイードは目を見開く。自分の耳で今、聞いたばかりの言葉が、信じられない。
彼女は自分の魔物めいた姿を目撃したはずだ。その凶暴性をも。
それでもなお、そう言ってくれたのだ。味方だと。ドラゴンの敵である、ニンゲンの少女が。
――ずっと味方だと。
何か、温かくて柔らかい光が、心の沼地の、昏いどろどろとした表面にふわりと降り立ったように感じた。
その神聖さに、シャイードは動けなくなる。
剣で貫かれたように、胸が痛む。苦しい。――痛くて苦しいのに、嫌ではなかった。
そんな彼の様子には全く気づかず、アイシャは照れくさそうに、腕を解いて一歩離れた。
「だって、おねいさんだからね!」
眦に涙を浮かべ、少女は無理に微笑む。
見つめるシャイードの表情も、無意識に和らいでいた。
目蓋を閉じ、首を僅かに前傾させる。
「……ありがとう、アイシャ」
「えっ……?」
それはとても自然に言葉になった。小さな声。穏やかな抑揚だった。
アイシャの耳にだけ、かろうじて届くだけの短い言葉。
少女は慌てて手の甲で目をぬぐい、シャイードの顔をまじまじと見つめた。
「何? なんて言ったの、シャイード。もっかい、」
シャイードはそんな彼女の鼻に、中指を弾いて一撃を喰らわせた。「いたっ」と言って両手で鼻を押さえるアイシャ。再び涙目になっている。
「バーカ。二度も言ってやんねーよ!」
シャイードは腰に両手を当て、からからと笑った。その耳が赤くなっているのを、少し離れて立つアルマだけが気づいた。
「ぐおら! シャイード!!」
左の方から名を呼ばれて視線を向けると、店主が街路を凄い勢いで走り込んでくる。
胸には陽光を反射して危険に光る戦斧を抱えていた。
すぐそばまでやってきた店主は涙目で鼻を押さえるアイシャを見る。
大柄な背中から、ゴゴゴゴと音が聞こえそうなほどのオーラが立ち上った。眼窩が影になって凄みが増している。
「てめぇ……、アイシャを叩いて泣かせてたな!! 今!!」
「い、いや。店主、誤解だ!」
「問答無用、そこに直れ。ぎええええーーーい!!」
「うっわ」
シャイードは慌てて身を躱す。戦斧は一瞬前まで彼の立っていた地面に大きな穴を作った。
「チッ、躱しやがったか。お前のことはなぁ、一度、二枚におろしておかなきゃ俺の気がすまねぇとずっと思ってたんだ!!」
「一度でも二枚におろしたら、二度目は出来なそうだがな」
アイシャの隣まで避難してきて、アルマが冷静に呟く。
「なんでだよ! ……いや、マジでなんでだよっ!?」
シャイードには店主に恨まれる心当たりが全くなく、つい二度言ってしまう。
縦横無尽に力強く振られる戦斧を、シャイードは軽業めいてひょいひょいと躱した。
「ちょこまかと動くんじゃねぇ!」
「いや当たったら、死ぬだろこれ!」
「お、お義父さん!! いい、一体、何事なの!! ……あれ?」
アイシャは店主が振り回している戦斧の柄が、壁に掛けていたときの木ではなく、金属に変わっていることに気づいた。
「くっそ……! 当たらねぇ……!! 俺の腕もだいぶ、なまっちまったか?」
戦斧の頭を道に立て、柄に片手を置いて店主は肩で息をした。
シャイードはその鼻先で、困惑したように後頭部をかいている。
「よく分からんが……。武器の仕立て直しは無事済んだんだな」
「おうよ!」
店主はいい笑顔でサムズアップした。
それからアイシャへと近づき、彼女の身体を片手で自らへと引き寄せる。
「これからは時々店を閉めて、アイシャと二人三脚で遺跡探検に行くぜ!」
「えっ!?」
アイシャは驚き、巨漢の育て親を見上げた。
彼は優しい瞳で、親友の忘れ形見を見下ろす。
「そうだ。これが最適解ってやつよ。……アイシャ」
「はいっ」
「お前は俺の大切な、自慢の一人娘だ。いずれは俺の元から巣立って、立派にやっていけるだろうさ! そりゃあ、間違いねぇ。――だがな? 今はまだ、お前を独り立ちさせる時期じゃねぇ。まだお前には早ぇ!」
「……はい……」
「だが、お前の夢を叶える手伝いは、俺にも出来そうだ。しばらく手伝わせてくれねぇか?」
「! ほんと、に……? いいの?」
目を丸くして見上げてくる娘の背中を、店主は手加減しつつばしっと叩いた。
「おうよ! お前のことは俺が守ってやるから、安心して探索しろや!」
「うう……ううぅ……」
アイシャはうつむき、エプロンドレスの裾を両手でぎゅっとつまんだ。肩をふるわせて、ぼろぼろと涙を落とした後に、養い親へと両手でしがみつく。
「ありがと! 嬉しいよ、お父さん!! うわああぁん!!」
「へへっ。任せとけぃ」
店主は娘の頭を撫でながら、笑み崩れた。父娘の間にあった最後の壁も、同時に崩れ去っていた。
アルマが二人を見つめるシャイードの隣に立つ。父娘とシャイードとの間で何度か視線を往復させた後、口を開いた。
「嬉しそうであるな?」
「はぁ? 別に、俺には関係ねえし……!」
「それでも、……嬉しそうであるな?」
「しつけーな。俺自身が、別に嬉しくないって言ってんだよ!」
「なるほど。………。にも関わらず、嬉しそうであるな?」
「………。お前って、すげー頑固だよな……」
シャイードはがっくりと肩を落とした。けれど今は、怒る気もない。
何故だか気分が良かったのだ。
「馬車が来たぞ」
アルマが道の先を指さした。
こちらにて、第一部完結となります。
読んでいただき、ありがとうございました!
第二部も、引き続きどうぞよろしくお願いします。




