受肉
「――痛ってぇええ!!」
シャイードは悲鳴を上げながら勢いよく身を起こす。両手で顎下をガードしていた。
まさしく、喉元を食いちぎられたかのような痛み。両目尻には涙がたまっていた。
「いきなりなにす……、るん……」
そこは見慣れた宿の一室だった。机の上で朝の光を浴びていたフォスが、ふわふわとシャイードの傍に漂ってくる。
陽光の元ではおぼろげなその光球を捕まえ、シャイードは掌の上で転がした。鳥の羽毛の、一番柔らかな部分だけを集めたような、かすかな手触りが返る。
フォスは構って貰えるのが嬉しいのか、機嫌良さそうに明滅した。
「……夢?」
シャイードは無意識に入っていた肩の力を抜いた。
鋭く息を吐き出す。
「はっ、馬鹿馬鹿しい夢を見たもんだ。それもこれも、全部こいつのせいか」
フォスを解放し、枕の下に手を突っ込む。
「ん?」
シャイードは枕の下をまさぐった。だが、そこにあるはずの四角い感触が手に触れない。
「な……っ!? ない、ない……! ない!!」
枕を持ち上げ、布団もひっくり返す。床に落ちたのかとベッドの下や、壁との隙間も覗き込んだ。
夕べは確かにあったはずの魔導書はなくなっていた。
シャイードは布団から飛び起きる。
生成りのチュニックを頭から被り、ベルトを締め、ターバンを巻いて靴を履くと扉へ向かった。
鍵を掛けたはずの扉が、開かれている。
「くそ、深く寝入りすぎていたか。この俺が、忍び込まれて気づかないなんて!!」
シャイードはいらついて、ターバンごと髪をかきむしる。
扉を乱暴に引き開け、廊下に飛び出した。フォスは彼の頭をガードするかのように上に乗る。
だが、足早に階段を駆け下りて酒場のフロアにやって来た時、シャイードは目の前の光景に立ちすくむこととなった。
驚きに顎が落ちていく。その間にフォスは、彼のチュニックの中に滑り入ってしまった。
「あ! シャイード! おはよう!」
アイシャが作業の手を止めて振り返り、大きく片手を振っている。
「ごめんね! さっきお湯を持っていったんだけど、まだ寝てたみたいだったから。ちょっと待ってね、この後すぐに持ってくね」
彼女は言って、再び作業に戻る。
すぐ隣に、黒い長衣を着た人物が彼女に背を向けて座っていた。アイシャはその人物の、床に引きずるほど長い象牙色の髪を、後ろで一つにまとめて三つ編みにしているところだ。
テーブルの上には湯気を立てる朝食と、黒い鍔広の三角帽子が置かれている。
シャイードは傍へ駆け寄り、テーブルに両手をついて覗き込んだ。
「お、おま……、お前……! アルマぁ!?」
アルマは首を傾げた。
「大きな声を出さずとも聞こえておる。我に何か用か」
「いや用とかそう言うんじゃ」
「なあに、シャイード。急にお友達が尋ねて来て、照れてるの?」
アルマの後ろからひょこり顔を覗かせたアイシャが首をすくめて笑う。
「は? おま、アイシャ。こいつアレだよ。アルマ! 話したろ!」
「?」
アイシャはピンと来ないようだった。
彼女が眠りの中で出会った”魔導書さん”は、この姿ではなかったということか。
「シャイードのお友達なんだよね?」
「友達じゃねえ!」「友達ではない」
二つの声がシンクロし、思わずシャイードはアルマを見た。
アルマは夢の中と変わらぬ、虚ろな瞳で前を見たままだ。
「我はシャイードの所有物で、しも…」
「しょゆぶ?」
「わーー!! お前はまたそういう説明が面倒くさくなりそうなことを!」
真後ろにいたせいでよく聞き取れなかったのか、身体を傾けてアルマを覗き込むアイシャ。横からシャイードはアルマの口をふさいだ。
「ただの知人だ!」
そのままアイシャを振り向き、妙に力んだ口調で言う。
「知人ってことはぁ……。つまり、友達じゃない!」
「言葉が二種類ある意味、考えたことあるか!?」
アイシャは目の前でもみ合う二人を見て、満足げだ。編み終わった三つ編みを、黒いリボンで縛る。
「はい、出来たよ。これで引きずらない、かな?」
後ろに垂らすと、まだ毛先が床に触れてしまいそうだったので、アイシャは三つ編みをアルマの身体の前に回した。
「シャイード、先にご飯にしちゃう?」
「あ、……ああ。頼む」
はーい、と言って、アイシャは元気にカウンターへ向かった。
その間にシャイードはアルマの隣の丸椅子を引き、腰掛ける。今の一幕で、どっと疲れた様子だ。
シャイードは片肘をつき、すました顔で食事を取るアルマを、上から下までまじまじと観察した。
夢の中で男の腕にあった鎖は、長衣の中にしまい込まれているようだ。
シャイードは身を低くし、異形へと小声で話しかける。
「あの夢は、現実か?」
「………、ここが現実だ、シャイード」
「分かってる。どうやらあのアルマで間違いないな。お前、俺の魔力を、喰ったのか……?」
シャイードは顎の下を守るように手でさする。
アルマは無言で、シャイードへと視線を動かした。夢の中と違わぬ、整いすぎた顔がそこにある。だが瞳に宿る深淵に覗き込まれると、シャイードは身の毛がよだった。
「ドラゴンを味わうのは、初めてであったぞ」
「しーっ!」
アルマの唇が、わずかに弧を描いた。ように見えたが、気のせいかも知れない。ぞっとしない想像だ。
「いいか。そのことは内緒だ。極秘だ。今後二度と口にするな」
「そのこと……? ドラゴンを味わ」
「その単語と俺の関係だよ! というか、俺はお前に、喰って良いと許可した覚えはないんだがな!?」
「そうであったか? 悲しい行き違いがあったのだな」
少しも悲しそうに聞こえない口調で、アルマは平然と述べ、朝食を口に運んでいる。
ぐぬぬ、とシャイードは唇を噛んだ。
「くそ……。大丈夫なんだろうな、俺。なんか変なことになったりは」
なにせ相手はビヨンドとかいう得体の知れないバケモノである。世界の滅亡に関わっているらしい相手からの攻撃を受けてしまった自身の身体が、心配ではあった。
「イーサを僅かに分けて貰っただけだ。………。まあ、気にするでない」
「おい、嫌な沈黙を挟むのヤメロ!」
「おまたせー! なあに、シャイード。朝から喧嘩?」
シャイードが声を荒げて立ち上がったところで、アイシャが朝食を運んできた。
シャイードは椅子を戻しておとなしく座り直す。
「何でもない、アイシャ。これは知人同士のよくある、……その、アレだ」
「? じゃれ合い?」
「そ、そんなんじゃねーけど!」
アイシャが皿を並べていく。焼きたてパンに、かりかりのベーコンエッグ。ホットミルクにサラダだ。
アルマは何事もなかったかのように、すまし顔で食事を進めていた。
アイシャはシャイードの隣に腰を下ろす。テーブルに両肘をついた。
「はー。シャイードにもちゃんと友達がいてほっとしたけど、それがこんなに綺麗な人だなんて、私びっくりしちゃった。最初、精霊か彫像が歩いているのかと思ったもん」
「なんだよお前、こういうのが好みなのか?」
「そういうんじゃないよ! あ、ごめんね、アルマさん。シャイード、私はただ、思ったままを言っただけだよ」
「そうだった。お前はそういう奴だったよな、アイシャ」
パンを千切りながら、シャイードが笑う。アイシャは少しだけ頬を膨らませた。
「ね、シャイード。ほんとにもう、旅に出ちゃうの? もうちょっとゆっくりしていくわけには」
「そうはいかぬのだ」
答えたのはアルマだ。
「汝らに残された時間は、あまり多くはないでな」
「ん? 何の話?」
アイシャは座ったままテーブルに身を乗り出す。
「おい、アルマ。そういうの、ほいほい話して良いことなのか?」
「いけないのか? 汝ら、すべてに関わることだぞ」
「えっ? えっ? 私にも関係する話?」
アイシャはアルマとシャイードの間で、視線を往復させた。
アルマはシャイードの返答を待っている。その沈黙は、「主はお前だ、判断しろ」と言っているようにシャイードには感じられた。
「……。お前には関係ない話だよ、アイシャ」
数秒考えた後、シャイードはそう返答した。
アイシャは押し黙った後、「そっかぁ……」と、残念そうに身を引く。
(アイシャに知らせて何になる? 彼女は信じてくれるだろうが、何も出来やしない。心配させるだけだ)
「それよりアイシャ。あの魔女と将軍とやらは?」
「メリザンヌさんはまだお部屋かな? 将軍さんは、夕べの内に帰っちゃったよ。忙しいんだって!」
「そうか」
シャイードはテーブルに片肘をつき、なにやら考え事を始める。
その横顔をしばし見守った後、アイシャは唐突に、顎の前で両手を打ち合わせた。
「あ、そうだ。お義父さんが、シャイードと話したいんだって! ご飯が終わったら、お部屋にお湯を運ぶから、身支度が済んだら顔を出してあげてね」
「ああ」
シャイードは上の空で頷いた。




