魔導書 3
沈黙が流れた。
冗談ではないなんて冗談ではない、という冗談が、シャイードの頭の中でこだましている。
鳥の鳴き声一つしない森は静かだ。
沈黙を破ったのは魔導書だ。
「我は汝の師、サレムの遺産である」
「し、知ってる」
尊敬する師匠が自分に残した大切なもの。
だからこそシャイードは苦労して探し出したのだ。それがまさか、このへんちくりんな自称魔導書であるとは夢にも思わなかったのだが。
「サレムは汝に、我を引き継いだ。同時に、その仕事をも引き継いだのだ。世界を滅亡から救う術を探す、という」
「なんだって!?」
魔導書の言葉はシャイードにとって全くの初耳だった。
サレムはシャイードの育ての親であり、十数年の時を共にしたけれど、そのような深刻な話は一度も耳にしたことがない。
「いずれは汝にも話すつもりでいたであろうが、仕事は奴が完遂するつもりでおったのだ。不測の事態に陥らなければ、な」
「そんな、まさか……、師匠が?」
魔導書の語る話が真実ならば、滅亡という話も途端に現実味を帯びてくる。
サレムとて冗談を言わぬわけではなかったが、死に面してまで冗談を言うとは到底思えない。
「でも、世界を救う、だなんて。にわかには信じられないが……」
口元に手を添えて、シャイードは独りごちる。直後、はっと顔を上げた。
「いや、そもそも。世界がいつ危機に陥っていると言うんだ。別に、平和……とは言わないが、滅亡しそうには思えないが」
「滅亡はする。何もしなければ確実にな。どれくらいの時間が残されているか、はっきりと言える者はおらぬだろうが」
「じゃあ、100年後、1000年後かも知れないのか? だったら……」
「世界膜の状態から推察するに、あと数年保てば幸運だと我は考えておる」
「す、数年……!?」
「最良の推測でだ。今日、明日にも崩壊する可能性すらある。さすれば再び、厄災が目覚めるであろう。……いや……」
アルマは一度言葉を止め、口元に人差し指を立てた。何かに耳を澄ませるように目を閉じる。
「厄災は、もう目覚めておるやもしれぬ。世界膜が不安定になって厄災が目覚めるのか、厄災が目覚めたから世界膜が不安定になっておるのか。卵と鶏の問題のようなものだ。すべては手遅れで、この世界はもう、」
「待ってくれ!」
シャイードはアルマの言葉を遮った。
「そんな途方もない話、聞かされても困る。悪いが俺にはどうにも出来ん。誰かもっと適任者がいるはずだろ!?」
「ふむ? 汝は汝らの種族を滅亡から救いたいのではないのか?」
「それは……っ。確かに、そう、かもしれんが……」
「世界が滅亡してしまえば、どのみち、汝らの種族も滅ぶしかないのだぞ。それを人任せにして納得できるのか、汝は」
「ぐっ」
言葉に詰まったシャイードをしばし見つめた後、
「厄災はな、ビヨンドなのだ」
「!? お前やあの氷の蛆虫と同じ?」
アルマは深々と頷く。
彼が手をかざすと、目の前に球体の幻影が現れた。青と緑と白で不規則に彩られている。
空中に浮かんだまま、ゆっくりと回転していた。
球体は、さらにいくつものおぼろげな膜に包まれていて、膜と膜同士はふれあったり離れたりしている。
しかし、安定して回転していた。
「なんだこれ」
「汝らの世界。それと、それに重なるように存在する世界膜だ。実際の景色とは違うが、概念を視覚化した」
突然、一番外側の膜の表面に黒い穴が現れた。
穴は何層もの膜を貫き、周囲を蝕んでいく。すると全体の膜と膜が泡立ち、激しく乱れ、ちぎれ、消滅する。
球体の回転軸がぶれ始めた。黒い物体は次々に膜を浸食し、さらに肥大化していく。
「ビヨンドは、本来、この世界にあってはならない存在。それをニンゲン達は逆の宇宙から喚び寄せてしまったのだ。それが、この世界のバランスを損ない、破滅をもたらす」
「じゃあ、……お前も破滅の片棒を担いでいるってことなのか?」
「おお……」
アルマはぽんと手を打った。
「それは考えたことがなかった」
「おいぃ!?」
「安心せい。我は汝が許すなら、すぐにでも向こう側へ還る。我にその鍵を寄越せばいい」
「え……、これをか」
シャイードはマントの下で、服に隠された鍵へと触れた。
「うむ。我は還ることが出来るし、汝はサレムの遺産と、滅亡から世界を救う任務から解き放たれるであろう」
「世界は?」
「滅ぶ」
「おいぃ!?」
アルマは両腕の枷に視線を落とした。
「我がサレムに課せられたのは、第一に『世界を滅亡から救う術を探す主を助けること』、第二に『人に危害を加えぬこと』。汝が第一の前提を放棄するなら、我は本来の世界へ還れる。さすればこの世界がどうなろうと、我にはまるで関係ない」
「なんという……。やる気のなさだ……」
シャイードは脱力する。
世界を救えだとか、大仰なことを口にしておきながら、目の前の異形にとってはまるで他人事だったのだ。
彼は師匠による何らかの制約でそう言って、動いているに過ぎない。
シャイードはそこまで考えてはっとする。
「おい待てよ。お前、最初の夢で、俺にいきなり鍵を寄越せと言ってたな」
「うむ」
「あの時、俺が何にも考えずにお前に鍵を渡していたら……」
「我にとっては僥倖であったろうな。軛から自由になれるチャンスであった」
アルマは悪びれず、平然と言ってのけた。
シャイードは背筋が冷えるのを感じる。
(こいつ……、心底この世界をどうでもいいとしか思ってねぇ!)
「汝は”何も考えずに”否定しておったが。世界にとっては、汝の捻くれ根性が、首の皮一枚で存続を繋いだな。幸運なことに」
「やり方がきたねえ! ……師匠、こいつは悪です!」
シャイードは天を仰いで、告げ口した。
「ほう。我のことを先は変態だと評しておったが、今度は悪になったのか。しかして変態と悪の定義がよく分からぬ……」
興味深い、とアルマは顎に手を添えて頷く。
「一生悩んでろ、この悪の変態魔導書。――だがしかし、悪で変態でも、お前は俺に従う。そしてニンゲンに危害を加えることは出来ない。主導権は、あくまで俺にある、のか」
頭ごなしに命じられるとつい反発したくなるシャイードだが、これは反応に困った。
世界の命運など、明らかに手に余る。重すぎる。
嫌だと言いたいが、言えばドラゴンの滅びどころの話ではない。
結局、どう嫌がって反発しようと、この世界の住人であるシャイードは当事者なのだ。
シャイードは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「どうしろってんだ、師匠……! こんなの、俺には……っ」
「我はどっちでも良いぞ」
「お前はそうだろうよ! 世界を救うだと? いくらなんでも重すぎる。師匠ですら出来なかったことだぞ! 何から手をつけて良いかもまるで分からん」
「なんだ。ドラゴンのくせに弱気だな」
「うっわ!!」
すぐ傍から聞こえた声に驚いて顔を上げると、密着するようにアルマが膝を抱えてしゃがんでいた。
飛び退くシャイードに向け、アルマは首を傾げる。
「ドラゴンというのは、もっと、傲慢で独善的で孤高な存在だと思っていた。認識を改めねばならぬな。弱気で、優柔不断で、」
シャイードはカチンと来て立ち上がる。
種族をおとしめられることほど腹が立つことはない。
「何だとこの野郎。くそっ! ハッ!! そこまでいうなら、やってやるさ! どうせ旅には出るつもりだったんだ。仲間を探すついでに、世界も救ってやるよ。救ゃーいんだろ、くそが!!」
「……阿呆だ」
「何か言ったか?」
「いや、気にするな」
アルマも立ち上がった。ふわりと風が吹いて、異形の長衣の裾と三角帽子の鍔を揺らす。
「案ずるな。世界膜のゆがみは、我が感知できる。ビヨンドの気配もな」
「じゃあ、俺はそれを何とかしていけば良いのか?」
「当面はな。そうして情報を集めながら、すべての元凶である厄災を、この世界から追い払う術を探っていくのが良かろう」
アルマの言葉に、シャイードは眉根を寄せる。案ずるなと言われても、案ずるにあまりある。
「時間がないってのに、そんな悠長なことで大丈夫なのか?」
「さてな。我はその答えを持たぬ。だがどんな道のりも、最初の一歩を踏み出さぬ限り、永遠に目的地には着かぬものだ。滅びの運命を変えたくば、なんにせよ、一歩を踏み出すしかない」
「………。厄災も、ビヨンドだと言ったな?」
「うむ」
「なら、制約や綻びを見つければ、倒せる、のか?」
「それこそが汝らの希望となろう」
シャイードは大きなため息をついた。そして自らの右掌を見下ろし、ゆっくりと握り拳を作る。
「覚悟を決めるしかない、か。どのみち破滅が待っているのなら、座して待つのは性分じゃない。せいぜい、あがいてやるさ。”片手間”にな」
シャイードは顔を上げ、片方の口角を持ち上げた。
アルマは無表情に主を見つめる。そしてそちらへと、一歩、近づく。
「では改めて、……汝のイーサを頂こう」
アルマはシャイードの顎に手を伸ばし、それを上向けさせる。
シャイードが突然の不可解な相手の動きに惚けている間に、露わになった顎下に喰らいついた。
そこはドラゴンにとっては逆鱗のある場所である。




