魔導書 1
自室に戻ってくると、机の上にはクロスボウと魔導書が載っていた。アイシャが予め届けておいてくれたのだろう。
シャイードは魔導書を手に取った。黒く、肌に吸い付いてくるような不思議な感触のする革の装丁を撫でる。
途端、違和感を覚えた。
「なんだ……? あっ!」
魔導書の表紙に、あるべきものがなかった。
シャイードのクロスボウボルトが穿った穴が。
彼は本をひっくり返して裏表紙を確認するが、そこも綺麗なものだ。
背や小口にも変化はない。
表紙を開いて中を確認する。所々読めるのに、全く理解できない文章と、奇妙な図表が並んでいた。中身にも傷はないようだ。
(アイシャだけでなく、フォレウスも、魔導書は白紙だと言っていた。なるほど、鍵を持たない者には、中身すら見えないようになっているのか。一体、どんな秘密が隠されているんだ、この本には)
大蟻の襲撃を受けた際、アイシャの身体で大きな魔法を使ってから、肝心のアルマは居なくなってしまっている。
「おーい? アルマ?」
魔導書の表紙をノックして、名前を呼んでみる。が、何の形の返答もない。
「死んだか?」
本に対して死んだというのもおかしなことだが。
ボルトが刺さってしまったのは事実だ。
ともあれ、彼は師匠の遺産が手元に戻ったことに安堵し、衣服や靴を脱いでくつろいだ。
本を枕の下に隠して眠りにつく。
この魔導書がいかなるもので、どんな力を持つのか。
師匠が自分に託した意味は何なのか。
それは新たな旅の中で、ついでに探していけば良い、と考えた。
何しろ、時間だけはたっぷりとあるのだ。
素肌に、布団を引っ張り上げて目を瞑る。
そして彼は深い、――とても深い眠りについた。
◇
夢の中で、いつぞやの男に再び出会った。
その魔術師風の男は、丘の上の巨木の根元に座り、本を読んでいた。
巨木は、まさしく巨木だ。遠近感が狂う。幹の周囲は一体、何十メートルあるのだろう。
梢は天を覆うほどに広がっているが、枝々に不思議な光が宿っているお陰で、樹下には木漏れ日のような光が降り注ぎ、暗くはない。
柔らかな色彩の下、男だけが影が凝った色をまとい、しかして本人には色がない。
シャイードの足下の道は、蛇行しながら大樹の根元へ続いている。
それをたどっている途中で、シャイードは男に気づいたのだった。
正直シャイードは、得体の知れない異貌の男にあまり近づきたくはなかった。どうにも嫌な感じがするのだ。
それは、シャイードの本能に訴えかける嫌悪感で、理由は説明できない。
けれども結局は、静寂に耐えきれずに近づいていく。
シャイードがたどり着くと、男は本を閉じて座ったまま顔を上げた。
男の背はとても高く、また少し距離もあったため、座っていてもシャイードをさほど見上げない。
鍔広の三角帽子の下から覗く瞳は、今日も底なしの闇のように光がなかった。
「面倒なものを貰って来おったな」
「……え?」
唐突に男が言って、シャイードを指し示す。シャイードがマントの下から左腕を出してみると、白い腕輪がはまっていた。
見たことのない腕輪だ。蛇の意匠をしていて、左の手首と肘の間にとぐろを巻いている。見た目は白金のような金属だが、体温になじんでいるのか、ほんのりと温かく感じた。
シャイードはその腕輪が、一目見て気に入った。とても美しくて優美だ。蛇の瞳は小さなアメジストで出来ていて、見ていると安心する。
シャイードは腕輪を、男の目から隠すように背後に遠ざけた。
「やらねーぞ」
「ほら、面倒だ」
魔術師は小さく吐息した。その顔は、相変わらず作り物めいて無表情だったけれど、シャイードは彼にも感情らしきものがあるようだと知る。
「女の侮れぬところは、本能で相手の弱みを感知出来ることだな」
男の口調は平坦だったが、シャイードには賞賛に聞こえた。
異貌の魔術師は立ち上がり、シャイードに近づいてきた。読んでいた本はいつの間にかその手から消え失せている。
シャイードが止まるだろうと無意識に予想した場所を越えて、男はさらに距離を詰める。
シャイードが避けようとすると、男も同じ方向に大きく一歩を踏み出し、結果としてぴったりと正面切って向き合う形となった。
「近い近い! おまっ、距離感どうなってんだ?」
身長差から、シャイードは相手を見上げる形になる。三角帽子の下にある黒瞳が、彼をまっすぐに見下ろしていた。
間近で見れば、やはり男の顔は見惚れるほどに整って美しい。
その分、表情が読めないことが、とても不気味だった。
シャイードが下がろうとすると、両手でがっしりと肩をつかまれた。
男の両手から垂れた鎖が金属音を立てる。
「おい! 俺に触」
「早いところ、汝の魔力を喰わせろ」
「……は!?」
唐突な言葉に困惑し、シャイードは男の両手を振り払おうとした。けれど思った以上の力で、振り払うことが出来ない。
シャイードはその場で勢いよくしゃがみ、両足で地面を蹴ってバク転して彼から逃れた。
身を起こすと男が視界からいなくなっている。
直後、背中に気配を感じた。シャイードのうなじの毛が総毛立つ。
耳元に温かな息が吹き掛かった。
「魔力を喰わせろ」
「……ッ! ふっざ、けんなぁっ!!」
シャイードは肩越しに相手の胸ぐらをつかみ、上体を前傾させるのと同時に腰を跳ね上げて前方に投げ飛ばした。
綺麗に決まった、と思ったが、男は地面に背をつく前に空中で止まり、一回転してふわりと正面に降り立つ。
「何故、嫌がる」
男が首を傾げて呟く。
「喰わせろと言われて、ハイどうぞと身を差し出す奴がどこの世界にいるってんだ! この変態!」
「へん……、たい?」
男の目が少しだけ大きくなった。顎に手を当て、何か考え込み始める。
その間に、シャイードは回れ右して駆けだした。
「何だ、アイツ……。意味が分からん。つきあいきれん!」
自慢の俊足で丘を下り、森の中に駆け込む。
森の中の道は白く、木漏れ日に彩られている。小石が多いが、走るのに支障があるほどではない。
この道はどこへ続いているのかと訝しみながらも、今はとにかく異形の魔術師から逃げることを優先した。
(怖がっているわけじゃない。俺の方が絶対強い)
走りながら彼は自分に言い訳する。
(ただ、アイツからは凄く面倒くさい気配がする)
シャイードはドラゴンの気性通りに傲慢で誇り高い反面、怠惰な一面も持っていた。
本気で戦えば自分が勝つと確信している――それが事実であろうとそうでなかろうと。
わかりきっているからこそ、面倒くさい戦いを避けたいのだった。
「ここは我の空間だぞ。汝に勝ち目も逃げ場もない」
「げっ……!」
すぐ近くで声が降り、走りながらシャイードは上を見た。
異形は空を飛んで彼に並んでいる。
男もまた、自分の勝利に絶対の自信を持っているようで、無知な相手に事実を諭すように語った。
「変態、とはどういう意味だ」
シャイードは問いかけを無視して速度を上げる。
男も難なく追随する。
男が前方に手をかざすと、小道が森の木々に閉ざされた。
シャイードは急ブレーキを掛け、反転する。
「無駄だと言うに。話を聞かぬ奴だな。それより変態、」
「聞いたら喰われるんだろ! 誰が聞くか! ……っとぉ!?」
振り返って片手を突き上げ、相手の言葉を遮ったシャイードは、何かに右足を取られてつんのめる。
とっさに左足を大きく前方に踏み出してバランスを取り、転倒は免れた。
右足には草の蔓が絡んでいた。
「こんな、……ものっ!」
キックの要領で強引に蔓を断ち切る。
異形はその間に、彼の周囲に次々に高い岩の壁を立てた。あっという間にシャイードを囲う円形の岩籠が完成した。
「汝の否定は、何のための否定だ」
岩壁の上に魔術師が降り立つ。
シャイードはそれを見上げた。異形の黒いローブと白い長髪が、風を受けてはためく。
「汝は何も知らずに否定をする。それは何故だ? 知らずに正しい選択が出来るのか?」
「それは……っ!」
「すべてを否定することは、思考自体を放棄しているのと同じだ。汝の場合、ただ状況の変化を厭うておるだけではないのか」
シャイードは痛いところを突かれ、言葉に詰まる。
選択を間違えるな、とは師匠の口癖だ。
「……っ。俺が嫌だから、嫌なんだよ! 鍵を寄越せだの、イーサを寄越せだの……。何で俺が、アンタの欲求のままに何でもくれてやらなくちゃならないんだ!」
「ならば汝は、それを先に問うべきだったのでは?」
「聞いたら教えてくれるのかよ」
「無論だ」
異形は帽子の鍔を片手で押さえ、岩籠の中へと飛び降りた。
顔を帽子の影でうつむけたまま、男は口を開く。
「汝は我の主。我から好きなように答えを奪う権利がある」
「はぁっ……!? 俺がいつ、………」
言いかけてシャイードは口を押さえた。似たような状況を、つい最近味わった記憶がある。
それに気づき、シャイードの肌は粟立った。
「お前……。もしや、……アルマ、なのか……?」
異形の魔術師は、帽子の鍔を持ち上げた。
これほどはっきり、相手の顔に困惑を見つけたのは、シャイードは初めてだ。
「よもや、そこからとは思わなんだ」




