手当
アイシャにとっては、すべてが驚きの連続だった。
それは遺跡に入ってからずっと続いていたことだが、遺跡を出た後も終わってはいなかった。
シャイードとフォレウスが木々の向こうに消えた後、アイシャは一人の帝国兵に付き添われながら何度も不安そうに森を見ていた。
彼女が思いきった行動に出たのは、シャイードのものとおぼしき悲鳴がかすかに聞こえたからだ。
帝国兵を振り切り、駆け込んだ森の中で見た光景――何度も弾丸を撃ち込まれているシャイードを見たときには、身体が勝手に動いていた。
そして今。
メリザンヌの腕の中で気を失ったシャイードを見て、身体が震える。
少女は両腕をかき寄せ、唇をわななかせていた。
今更ながらに心臓が早鐘を打ち、瞳を水の膜が覆う。
「……何…、……なんなの……?」
眉根を寄せ、先ほどまで凶暴に暴れていた彼の、頭から伸びる角を見た。
メリザンヌはアイシャの声に顔を上げ、眉尻を下げて微笑む。寂しげなそれに気づく余裕は、今のアイシャにはない。
「もう怖がらなくて大丈夫よ、アイシャちゃん。……大丈夫」
魔女の言葉に、少女は不思議な悔しさを覚える。感じたことのない気持ちだ。
大事にしていたぬいぐるみが、本当は別の子のものだったと知らされたような気持ち。
ちりつく胸に、軽く握った拳で勇気を添え、アイシャはメリザンヌに近づいた。
シャイードに触れたかったが、彼のマントの下から覗く鋭いかぎ爪に気づくと心がすくんだ。
顔を上げ、年上の美女を見る。
「……彼は……、シャイードは、どうしちゃったんですか……?」
「眠っているだけよ。……この子、とても疲れていたから」
魔女は質問の意図を正確に汲んだはずだが、わざとずれた答えを返してきた。
愛おしげな瞳を向けて角を撫でる魔女を、アイシャは理由もなく嫌いだと思ってしまう。
素直なアイシャの思考は、すぐその顔に書かれた。メリザンヌが気づき、小さく笑った。
「アイシャちゃん。ちょっとこの子、お願いできるかしら」
「えっ!?」
唐突に魔女からシャイードの身を委ねられ、アイシャは肩を跳ねさせた。
丁寧に手渡される重みを、恐る恐る両腕で受ける。後ろに倒れ込みそうになりながら、片足の重心をずらすことによって支えた。
間近で聞くシャイードの呼吸は穏やかだ。とても深い眠りの中にいる。
その横顔は疲労の色が濃く、確かに彼はとても疲れて見えた。アイシャの中で、恐怖心が力を失っていく。
「怪我人の様子を見ないと」
少女が近くの木の根元に座り、眠るシャイードの身体を横たえて頭だけ支える形になるまで手伝った後、魔女はフォレウスの方へ向かった。
アイシャは幹に背を預け、腿の上にあるシャイードの寝顔を見ていた。
彼の寝顔を見るのは意外にも初めてだ。
つんつんとがった癖の強い黒髪は、思ったよりも柔らかい。そこから生えている漆黒の角も、触れてみればしっとりとしてほの温かく、生きている感触がした。
離れて様子をうかがっていたフォスが、静かに戻ってくる。アイシャが視線を向けると、光精霊はシャイードのマントの下に潜り込んでいった。
光精霊を追ったアイシャの瞳は、再びマントの裾から覗くシャイードの指先を見る。伸びたかぎ爪もまた、黒い。でも今はもう、怖くはなかった。
わずかに険のあったシャイードの表情が、髪を撫でていると穏やかになっていく。
「貴方は誰なの……?」
答えがないと知りながらも、アイシャは小さく呟いた。
(私、彼のこと、ほとんど知らないんだ)
ある日突然、一人で町にやってきた、歳の近い少年(と、彼女は思っている)。
無口だけれど、アイシャを邪険にはしなかった彼に、少女は客に対する以上につきまとった。
暇なときには話もした。
けれど思えば、話しているのは自分ばかりだった気がする。
彼は斜に構えた口調とは裏腹に穏やかで、装備品や道具の手入れをしながら、他愛ない自分の話を静かに受け止めてくれていた。
次々に蘇る彼との思い出の中に、先日の光景が現れた。
アイシャははっと身を固くする。
「おへそだ……!」
湯浴み中の彼の部屋にうっかり踏み込んでしまったとき、その裸体に違和感を覚えた。
あの場では理由が分からず、そのまま忘れてしまっていた。
彼の腹には、へそがなかった。
人間ならば必ずあるはずのそれが。
「そっかぁ。そうだったんだぁ」
謎が解けたというのに、アイシャの心はちっともすっきりしなかった。泣きそうな声で呟く。
(人間では、無かったなんて……)
考えもしなかった。けれど、外の世界には人間ではない種族だって沢山いる。
町にもたまに、エルフやドワーフ、それに獣人族が姿を見せることがあった。数は決して多くはなかったけれど。
さらに人里離れた地には、もっと不思議な種族も住んでいると聞く。
異なる種族の人々に対し、好奇心を覚えたことは幾度もあったけれど、先ほどのように恐怖を覚えたことはなかった。
(私、どうしてこんなにショックを受けているんだろ)
シャイードが人間ではなかったという事実に、落ち込んでいる自分を自覚している。
(友達だと思っていたのに、話してくれなかったことを、裏切りと感じているんだろうか)
それもある。
(友達のシャイードを、怖いと思ってしまったから?)
それもある。
(それとも……)
――そうかもしれない。
彼女はシャイードの髪を撫でながら目を閉じ、自分の心と対話した。
◇
一方、メリザンヌはフォレウスの傍らに跪き、その怪我を確認していた。
魔銃使いの胸は、鋭い爪で大きく切り裂かれ、肉がえぐれていた。出血も酷い。制服はその色からは分からないが、濡れそぼっていた。
首には食い込んだ爪跡があったが、そちらの怪我は浅い。
木に当たったとき、肋骨が何本か折れたようだ。或いは運が良ければヒビだけで済んでいるかも知れない。内臓へのダメージは見た目からは分からないが、吐血がないのは良い兆候に思える。
彼のことだから、とっさに受け身ぐらいは取れたのではないかと魔女は想像する。
フォレウスは青ざめていたが、意識はあった。
「竜殺し、に……、なりそこね、ましたよ……」
「貴方……、やっぱりお馬鹿さんね。殺す気でなんて、やらなかったんでしょ?」
「……すみ、…ません……」
「回復弾は?」
「はは、さっきからやってみてるんですがね……。ど…も、魔力切れ、で……」
フォレウスは左手に握ったままだった魔銃を弱々しく持ち上げた。
「ほんと、お馬鹿さん。……最後の一撃、あれのせいね?」
フォレウスは頷く力も惜しいかのように、目蓋を一度閉じて開いた。
「俺、……死にますか……ね……? もしそうなら、……伝言、お願、」
メリザンヌは唇だけで微笑んだ。目は全く笑っていない。
彼女はフォレウスの唇に、自分の人差し指を当てて黙らせる。
「こんな時に、そういう冗談は止めてくれるかしら? 面白くないわ」
冗談では、と抗議したかったが、フォレウスの唇は封じられていた。
「目を閉じてちょうだい。……絶対に開けては駄目。命令よ?」
フォレウスは上司の言葉に、素直に従った。けれども、何を、という疑問が渦巻く。
彼女は回復魔法を使えない。……はずだ。
秘密の薬でも持っているのだろうか、と彼は鈍い思考で考えた。
直後、開かれた胸に、温かく濡れた感触がした。
はっとして、反射的に目蓋を開きそうになる。――が、フォレウスは上司の命令を守った。
彼女は彼を信頼した。
だから彼には、信頼に応える義務があったのだ。
「もう大丈夫。一応止血はしたから」
数分間か十数分間か彼には分からなかったが、フォレウスは気を失っていた。
メリザンヌの言葉に、ゆっくりと目蓋を開く。
顎を引いて怪我の様子を見ようとするが、包帯に隠されて分からなかった。
「ボス……。下手ですね、包帯……、ってっ!」
フォレウスの感想に、メリザンヌは頭上へのげんこつで答える。
「俺……、一応、怪我人……」
「急いで町へ戻りましょう。施療院へ行けば、回復魔法の使い手もいるわ。手伝いを呼んでくる」
フォレウスの弱々しい抗議は無視される。
来るなと命じていた兵士を呼ぶべく、メリザンヌは立ち上がった。




