終章 黒竜の宝物 1
「……ったく。何やってんだ?」
シャイードは振り返り、踵を返して数メートル戻った。
アルマは足を止め、東を向いて三角帽子の鍔を片手で持ち上げている。魔術師風の黒い長衣を身につけ、象牙色の長い髪を風に揺らす様子は、すっかり見慣れた元の姿だ。
シャイードは隣に並び、彼の顔を覗き込んだ。
翳した腕が邪魔で、アルマの表情は見えづらかった。けれど彼が首を傾げたことはわかった。
「”どうかしてる”というのは、どういう意味だ? レムルスは何と”同化してる”のだ?」
先ほどの言葉は聞こえていたらしい。東を向いたまま、アルマは問うた。
シャイードは一瞬言葉に詰まったあと、息を吐く。
「”同化してる”んじゃねえよ。”どうかしてる”んだよ」
「……。汝の言うことは、よくわからぬ」
「お前はバカだからな。帝国旗の話に決まってるだろうが」
「なぜ決まっているのかもよくわからぬが、我はバカではない」
「それを決めるのは、お前じゃないんだぜ。アルマ」
シャイードは口の端を持ち上げた。それから両手を大きく広げる。
「ドラゴンだよ! アイツやりやがっただろ。自分がドラゴンを好きだからって、グリフィンだった帝国旗をドラゴンに変えちまった」
「嬉しそうだな、シャイード」
「まあ、ドラゴンは格好いいからな!」
シャイードは背後を振り返った。今度は西から、明るい日射しが迫ってくる。
街道から見渡す限りは、のどかな風景が広がっていた。活発化している魔物の動きも、ファルディアの弓騎兵の活躍で抑え込まれていくだろう。やっかいな敵も、味方になれば頼もしい。レムルスはそう言っていた。
「レムルスは、ただ好きだからという単純な理由で選んだわけではあるまい。旗には『ドラゴンを恐れるヒトの心を変えたい』というあやつの願いがこもっているのだ。我はそう考える」
とうとう、光が到達した。風景のコントラストが唐突に上がる。
シャイードはアルマに向き直った。彼もまた、帽子の鍔を持ち上げたまま、シャイードの方を向いている。その表情が幾分和らいでいた。
「黒いドラゴンが帝都を隕石から守るのを、多くの者が見ていた。もしかしたら、いずれは……汝がドラゴンのまま生きられる世界がやってくるかも知れぬ。互いが、歩み寄る努力を止めなければ。――全ては汝が世界を救ったからだぞ、シャイード」
シャイードは言葉に詰まった。不意打ちだ。
自尊心をくすぐられ、シャイードはまんざらでもない顔をした。それから彼は、両手をじっと見つめる。
「まだあんま、実感わかねー。浮島での出来事はみんな、夢だったみたいな気がしてる」
「実際、『夢』は見たではないか」
アルマに指摘されると、シャイードは苦い顔になった。
「ったく。俺の夢に勝手に出てくるなって言っといたのに……」
「ああでもしなければ、我は今、ここに立てていない。出演料なら払おう。今は手持ちがないが、いつか」
「期待してねえよ」
シャイードはひらりと片手を振った。
浮島の落下。
もちろんその全質量を身体で受け止めたなら、シャイードとて今、ここにいない。
ギリギリのところで彼を救ったのはローシだ。
イ・ブラセルで妖精樹からシャイードの危機を聞いたローシは、クルルカン遺跡の最寄りの門に、妖精の道を開く。
そしてシャイードが浮島に押しつぶされる寸前に、土妖精の力を使って地面を彼の身体分、陥没させた。
同時にその質量を階段下から盛り上がらせ、逃げ遅れた人々を窪地の外にはじき飛ばして救った。
地面に生き埋めになったシャイードは、魔力を使い果たして気絶していた。
ローシはシャイードを運ぶため、彼の身体を人の姿に折りたたもうとした。しかし、何かが邪魔をして果たせない。
丁度その時、フォスが岩の隙間を抜けてきて、シャイードの口に魔導書が入っていることをローシに教えた。
魔導書を取り出し、改めてシャイードの身体を折りたたんだローシは、彼をイ・ブラセルへと運んだ。
動かない彼を妖精樹の根元に横たえると、シアは動揺した。
『シャイード、シャイード!』
ローシは、風もないのにざわざわと揺れる枝葉を見上げる。
「大丈夫じゃ。魔力を全て出し切り、気を失っておるだけでの。まあ、あちこち怪我もしておるが……」
傍にいたトウが、妹の声を聞こうと木の幹に触れた。目を閉じる。
『おねえちゃん。わたし、金の葉っぱ、作る。シャイードにあげて』
『金の葉っぱ?』
『うん。いまもってる魔力、一枚に集める』
『そんなことをして、あなたは大丈夫なの、シア』
『ぜんぜんへいきだよ。成長、ちょっとおくれる、だけ。お願い、シャイードにあげて』
『……。わかったわ』
そのあと、木の幹全体がうっすらと輝くのをその場にいた者たちは見た。手に届く低い場所の葉が一枚、脈々と流れ込む光を取り込み、金色に輝き始める。
幹の輝きが消えると、トウは金の葉をつまみ、枝から摘んだ。
『これを与えれば良いのね?』
『うん』
トウは返答に頷いてシャイードの頭の横にしゃがむ。そして手に持った金の葉を、彼の唇に触れさせた。
しかし当然だが、気を失ったシャイードは食べられない。唇を開かせて葉の先端を含ませてもダメだ。
トウは小さくため息をつくと、葉を取り出し、自らの口に含んだ。咀嚼しながらどんどんと口に押し込む。全てを口の中でしっかりとかみ砕いたのち、彼女は身を屈めた。シャイードの頭を持ち上げ、顎を片手で開かせる。ほんの少しためらった後、目を閉じて唇を重ねた。
『むうーーーっ!』
膝が触れている妖精樹の根を通して、妹がむくれるのを感じた。トウは笑いを堪えながら、かみ砕いた金の葉を、彼の中へと流し込んだ。
全てを渡し終わると唇を外す。
彼の喉仏が、上下に動くのを確認した。ゆっくりと頭を下ろす。
『むーーっ、むーーっ!』
『どうしたの、シア?』
トウはからかうように妹に尋ねる。
『よくわかんない……。けど、なんか、いまの、すごく”もやもや”した。おねえちゃんが、ずるくかんじた』
『ふふっ』
トウはシアの幹をなだめるように撫でた。
『ゆるしてね? これ一回きりにするから』
『だめ! いまの、一回にカウントしちゃ、だめ! なしっ!』
『ふふっ、そうね』
幹から伝わる妹の必死さが可愛らしくて、トウはころころと笑った。
程なくしてシャイードは目を覚ました。同時にアルマも、人の姿を取り戻す。
それからは忙しかった。
イ・ブラセル――
厄災の消滅と共に、全てのスティグマータの身体から刻印が消えたという。
彼らの罪は精算された。もうどこに行こうとも、彼らを過去の罪で迫害する者はいないだろう。二度目の危機を脱することが出来たのは彼らのお陰だと、手を繋いだ者ならみな知っていた。
けれども辛い仕打ちを受けてきた彼らは、すぐに社会に戻ることを恐れた。しばらくの間、イ・ブラセルに置いて欲しいというトウの願いを、シャイードは快く承諾した。
「しばらくと言わず、別にずっと住んだって良いぜ。なにもねえ島だが、シアが元気に育てば北の森も再生していくだろう。それが俺の望みでもある。当面は西の海岸で漁をして、この辺りの平地には畑を作って。温暖な島だし、食っていくのには困らんはずだ」
「オイラ、友達増えるの嬉しいな。一緒に歌って踊ろうよ!」
ロロディも笑顔で飛び跳ね、空中で前転した。元スティグマータの子どもたちが、やや遠巻きながらもその様子に目を輝かせた。
妖精樹となったシアも、姉が傍にいればこれまで以上に元気に育つだろうとシャイードは考えた。しかし、彼女は葉っぱをしおらせてしまった。
シャイードがすぐに島を出ると言ったからだ。
トウは妖精樹の幹を優しくさすりながら、シャイードに心で話しかけた。
『妹のことは、私が責任を持ってなだめておく。心配しないで』
刻印が消えても、まだ彼らには強い共振力が残されていた。それが彼ら本来の力なのか、それともいずれは消えゆく力なのか、シャイードにはわからない。
妖精たちは、物静かで優しい気質の元スティグマータたちにすぐになじむだろう。彼らが協力して妖精樹を世話し、島の環境を整えてくれれば、魔力の枯渇したイ・ブラセルが豊かな姿を取り戻す日も早いはずだ。




