選択の果て
シャイードが目を細めた次の瞬間、卵を強い衝撃が襲い、突如として彼は厄災もろとも扉の中にいた。
シャイードは顔を跳ね上げる。
信じられぬ光景が目に飛び込んできた。
卵の上半分に両手を当てて、赤竜が羽ばたいている。
厄災の両手は予期せぬ衝撃に、扉本体から外れたようだ。今は内側から、辛うじて縦枠につかまっている。
「イヴァリス!? なんで! お前、どうやって」
イヴァリスは全力で卵を押しながら、赤い瞳で兄を見た。
「何を驚く。元々これは私の役目だ、兄さん」
「お前……」
「私はそのために生かされた。ずっとそれを恨んでいた。けれど、兄さんは……違った」
イヴァリスは言葉を飲み込み、前に向き直る。
「兄さんは戻れ! 外側から扉を閉めるのだ」
「なっ! んなこと、出来るわけねぇだろ! お前まで厄災の世界に飛ばされる」
「構わない。私は……殺しすぎた。人間たちは私を赦しはしないだろう」
赤竜は自嘲した。
「この世界にもう、私の居場所はないのだよ、兄さん。それが私が重ねた選択の結果だ。でも兄さんは違う。そうだろう?」
「いや、俺だって罪を……!!」
その時、ついに卵の上部が完全に割れ、厄災が姿を現した。厄災は扉にしがみつく長い両腕の下に、新たな腕を二本生やしてイヴァリスの首を締め付ける。赤竜は顔をしかめた。
「イヴァリス! 今、助ける」
シャイードは卵の下半分から手を離し、イヴァリスの首に巻き付いた厄災の腕をもぎ取ろうとした。
ところがイヴァリスは尻尾を大きく振るい、シャイードの身体を扉の方へはじき飛ばす。意表を突かれたシャイードは、扉の外へ背中から転がり出た。すぐに飛び起きる。
中へ戻ろうとしたシャイードに、イヴァリスが苦しげに叫んだ。
「扉を……閉めろ! 早く!!」
「だが! お前が……!」
シャイードの声がわななく。
厄災の腕が、枠から扉の方へと伸びた。先ほどのように扉自体を掴まれてしまったら、閉めることが出来なくなる。しかし、このままではイヴァリスが……死ぬ。
「私の最後の選択、を、無駄に……す、るな……!」
イヴァリスが咳き込み、炎を吐き出した。……いや、違う。吐き出したのは大量の血だ。
見れば厄災が、イヴァリスの胸に巨大な刃を突き立てている。イヴァリスの羽ばたきが弱まった。
厄災は、扉の方へと身体を押し戻してくる。その両手が扉を探り、手を――
「うぉぉおぉあぁああぁあああ!!!」
シャイードは厄災が右扉の端を掴んだタイミングで、これを閉めた。厄災が急速に戻ってくる。次に厄災の右手が左扉に伸ばされた。
「イヴァリイイィイィス!!!」
シャイードは左扉を掴み、弟の名を呼びながら勢いよく閉めた。
――いや、閉まっていない。右扉に引っかかっている厄災の指で、隙間が開いていた。
挟まれた厄災の指が蠢く。
気配はもう、すぐそこだ。
扉の向こうから、イヴァリスの苦鳴が聞こえる。
「イヴァリス……!!」
「兄さ、……頼…む」
シャイードは顔を歪め、歯をガチガチと鳴らした。
(頼む、頼む、頼む……!! 閉まってくれ!!)
厄災の指があるせいで、シャイードが渾身の力で扉を押しても閉まらない。その上に、さらに右手の指先が現れようとしている。
(駄目だ、開かれる!!)
扉の隙間から、厄災の瞳が覗いた。
シャイードの心を、絶望が覆う。
厄災はシャイードを見てほくそ笑むように目を細めたあと、何かに気づいて瞳を動かした。
その目蓋が、びくりと震えて見開かれる。視線は、シャイードの肩越しに背後を射ている。
(なんだ……?)
シャイードは違和感を覚えた。
直後、何か光るものが飛んできた。フォスだ。光精霊はシャイードの胸元に貼りついてしまう。
(フォス? ……怯えているのか?)
シャイードは振り返ろうとしたが出来なかった。
振り返ってはいけない。
そう直感した。
首筋の鱗が逆立つ。人間の姿であれば、全身から冷や汗が噴き出していただろう。
指先が冷える。歯の根がガチガチと震える。
なにか、よくないものが、いる。すぐ後ろに。
今、少しでも動いたら、自分という存在が消し飛んでしまうような、強大な何かが。
シャイードは生唾を飲み、瞳だけを動かして厄災を見た。
厄災の目は、眼球がこぼれ落ちそうに大きく見開かれている。その瞳に、黒い影が映って蠢いているが、シャイードには何が映っているのかまではわからない。
わからなくて良かったと思う。
何故なら厄災の目が全て、眼窩でぐるりと回転したからだ。扉から、厄災の手が外れた。気を失ったかのようだ。いや間違いなく、気を失ったのだろう。
(今だ!)
シャイードの身体は硬直したままだったが、そのまま体重を前に掛けて扉を……閉じた!
途端に、上枠にある扉神の瞳が輝く。
それまでは黒一色だと思っていた扉の表面に、複雑な模様が浮かび上がって光った。
閉じた合わせ目から、蝶番に向けて、花が開くように。
扉の模様が全て輝くと、石畳と水平に円形の衝撃波が走り、シャイードは背後によろけて転がった。
と、思うと今度は扉に向かって風が吹き込む。シャイードは仰向けに転がったまま、扉を見上げた。
扉神は今や、全体が輝いている。それがゆっくりと空に浮かび上がった。驚いて見つめている間に、形が捻れ、歪み、最後には渦を巻いて消えた。
シャイードは何もなくなった空間を、あっけにとられて見つめる。自らの心音だけが聞こえる。
しばらくは動くことが出来なかった。
……。
…………。
………………。
どれほどの時間、そうしていただろうか。
主観的には、永遠とも思える時間が経った気がするが、客観的には僅かの時間だったのだろう。
息を吸い込んだことで初めて、自分が息を止めていたことに気づいた。周囲にはオゾン臭が立ちこめている。
「やった……のか……?」
まだ信じられず、扉神が消えた空間を呆然と見つめる。
そこから急に、再び厄災が現れるのではないかと疑った。
いつの間にか、背後からの重圧も消えている。
シャイードは恐る恐る振り返った。
そこには何もない。




