交渉
巣穴から少し離れた森の中。
帝国兵達の姿は木々の向こうにちらほら見えるが、明暗の差があり、向こうからこちらの様子は見えづらい。
話し声は届かないが、叫び声なら聞こえる絶妙な距離で、フォレウスは立ち止まった。
そしてシャイードを振り返る。
(飛びかかって魔導書を奪い取ることは簡単にできる。おそらくは。――だが、その後は? アイシャを危険にさらすことになるだろうか。それとも……)
彼我の距離を測りつつ考えを巡らせるシャイードを一瞥し、フォレウスは、はっ、と鋭く息を吐いた。
「見くびってくれるねぇ? ドラゴンちゃん」
シャイードは口元に手を運ぶ。無意識に考えを口に出していたかと思ったのだ。
「もう否定はしないんだな。――顔に書いてあるぜ? 相手が俺一人なら、簡単にこれを奪えるとか、そんなとこだろ?」
やれやれ、と盛大にため息をついた後、フォレウスは急にその顔からすべての表情を消した。
平坦な瞳でシャイードを見つめる。
途端、シャイードの背中を、悪寒が走った。
普段は茶目っ気を感じさせる濃褐色の瞳が、ぞっとするほど冷たい。
(死だ――)
竜の本能が、警告を発する。
(これは、大量の死を見送った狩人の瞳だ)
シャイードは無意識に、半歩下がった。
フォレウスの顔に、表情が戻る。満足げな笑みだ。
「野生の獣ってのは、ある種の賢さを持っているもんだな。争ってみないと上下を決められない人間より、よっぽど話が早い」
シャイードはプライドを傷つけられ、怒りに目を細めた。喉の奥で、ぐるると低い響きを立てる。
フォレウスはおどけたように両手を持ち上げた。片方には魔導書を持ったまま。
「おっと、これは失礼。人間の分際で、言い過ぎたよ。――ただな、おじさんはお前さんに、立場を分かって貰いたくてな」
「ご託は聞きたくない。本を返せ。俺のだ」
「まあ聞けって。こりゃあ、魔導書だな。それも禁書レベルの」
「………」
シャイードは問いかけに押し黙る。なるほど、とフォレウスは頷いた。
「ドラゴンってだけでもやっかいなのに、お前さんは禁書まで手に入れてしまった。これは明らかな脅威だな、我々人類にとって。……なあ、シャイード。お前、俺と一緒に来いよ」
フォレウスは、本を持つのとは逆の手を、シャイードに向けて差し出した。シャイードは目を細めたまま、上向けられた掌をじっと見つめる。
そして再び、フォレウスの瞳を見た。
「……、嫌だ、と言ったら?」
「お誘いじゃなく、誘拐になるかなぁ?」
夕飯は肉じゃなく、魚にするかなぁ、くらいの口調でフォレウスは答える。
シャイードは、この答えに意表を突かれる。細めていた目を丸くした後、ふは、と盛大に吹き出した。
「それはまた……、面白い冗談だな。この俺を……? ”ドラゴン”を、誘拐するって?」
自身の胸を片手で示し、大笑いした。
「いや、別に……、冗談のつもりはなかったんだがなぁ」
フォレウスは眉尻を下げて頭を掻く。
「だとしたらアンタは、冗談を言わない方が面白いな」
「あっ、くっそ。そういうこと言うー!?」
自分が面白いと思っている男は、傷ついたように口をとがらせた。
ひとしきり笑った後、シャイードは傍らの木に片手をついて息を整え、笑いすぎて眦に浮いた涙をぬぐう。
「なんだよ。実際、一度はお前さんを捕らえただろ?」
「アレは……っ! 不意打ちだったからノーカンだ。それに逃げなかったのも……」
「お嬢ちゃんのことがあったから、か?」
「なんだ。分かってるじゃないか」
シャイードは輝く金の瞳で相手を見据えた。口元の笑みは、凄みのあるそれに変化している。
フォレウスがヒュウ、と口笛を吹いた。
「そんな悪人面も出来るんだな。……っと、悪竜面と言った方が良かったか?」
「オマエの方こそ。俺をあまり見くびるなよ、ニンゲン」
「見くびっちゃいないさ。むしろ、お前さんを評価しているからこそ、一緒に来いって言ってるんだよ。――なあ、シャイード。お前さんは、自分のことを分かってない。”ドラゴン”の存在が、いかに人々に恐怖を植え付けるか」
「………。アンタはおびえているように見えない」
「そりゃ、おじさんはいろんな恐怖を見てきたからね。……ピュアではいられんのさ」
フォレウスは小さく肩を揺らす。そして続けた。
「ドラゴンは滅ぼされた。もう人間を脅かすことはない。おとぎ話の時代は終わった――。そのことが、どれほど人心を安寧にしたことか。想像したことがあるか? ある日突然、平穏な生活が終わりを迎えるかも知れない。財産や愛する人、かけがえのない家族を失うかも知れない。それもただ一頭の獣の、小さな気まぐれのせいで。そんな恐怖を抱えながらの一生を。お前さん達ドラゴンは事実、そうやって生きていた。……ドラゴンには人間を殺す必要なんてなかったはずだ。野にも山にも獣が満ちあふれ、彼らはその中でも最強を誇る。食べ物に不自由はしなかった。それなのに気まぐれで、遊びで、退屈しのぎで、お前さん達は逃げ惑う人間達を喰らい、村を焼き払い、町を破壊し、城を瓦礫の山にしてきた」
「………」
一息に話したフォレウスは、大きく息を吸い込み吐き出す。
「お前さん達は、好き放題、やり過ぎたんだ。そして傲慢だった。ちっぽけな人間達には何も出来ない。反撃されることなど、夢にも考えていなかったんだろうな。お前さん達にとって人間は、すぐに消し炭になる”か弱い存在”で、姿を見せれば泣きわめいて逃げ惑う、”面白いおもちゃ”でしかなかったんだから。ドラゴンは、人間を見くびりすぎたんだ」
「………っ!」
歯ぎしりするシャイードに、フォレウスは掌を向けて立てた。
「ああ、わかってるさ。”お前さん”はそんなことしちゃあいないよな? 最後のドラゴンよ。短い間だったが、おじさんは……、俺は、お前を見てきた。お前は、人の心を持っている。多分な? だから俺には、過去の同族の罪でお前を糾弾する気はさらさら無い。だがな……」
フォレウスは眉尻を落とす。そして手を下ろした。
「……大多数の人間は、そうは思わない。お前が……、ドラゴンが生きている、というだけで、彼らは恐怖するだろう。それは靴の中に一つだけ入った石ころのように、取り除かれるまで、彼らを悩ませる。お前は、そういう存在なんだ、シャイード」
「……だからっ!!」
シャイードは大声を出した。フォレウスの言葉は、わかりきっていることだった。
師匠の元で歴史を学んだ。人と竜の、不幸な歴史を。
「……だから俺はっ……! 隠していたのに……っ。こんな惨めな姿をしてまでも! それを、おもしろ半分に暴いたのはお前達だ!!」
「いや、おもしろ半分では……」
言いさしたフォレウスの言葉を、シャイードはさらに遮る。額に握り拳を当てた。
「……お前の話は、所詮お前らニンゲンの一方的な理論だ。ニンゲン達はその数が増えると共に、古くからドラゴンが棲み処としていた領域に土足で踏み込み、踏み荒らすようになった。我が物顔で森を切り開き、山を削り、川を干上がらせ……。尻尾を踏んで相手を怒らせておきながら、怒った相手を一方的に非難するのか!?」
「………」
今度はフォレウスが黙り込む番だった。シャイードは肩で息をし、言葉をひねり出すようにして続ける。
「俺も尻尾を踏まれた。卵から孵るよりも前に、大切な者たちを奪われたんだ。――それでも俺はっ……! 一度はニンゲンを、……許そうとさえした。俺の母や弟達を殺したニンゲンを。ドラゴンを根絶やしにしたニンゲンを! 俺は、師匠と妖精達と、静かに隠れ暮らしていければそれで良かった。満足だった……。なのにニンゲン達は、そんな小さな俺の願いすら、叶えてはくれなかった。親代わりの師匠も、妖精達も、みんな、みんな……っ、……っ!!」
シャイードはついに言葉に詰まり、一度下を向く。
息を吸い、顔を上げたとき、その瞳は燃えさかっていた。
「俺にとっては、踏みにじってくるのはいつだってニンゲンの方だ!! そりゃあ、憎いさ!! 許すことは苦しい。……とても苦しい。ニンゲン達が、今でも憎くて憎くてたまらない。母や弟達は何もしてない。師匠も! 妖精達も! もちろん、俺もだ!! なのに、なんで、殺されなければならなかった……? なんでだ……? 俺は、もう、……本当に、世界にただ独りの……っ」
感情を爆発させたシャイードは、それまでになく饒舌だった。最後は懊悩し、右手で、マントの上から胸をかきむしるようにする。
やり場のない怒りを、憎しみを、今も胸の内でくすぶるマグマのような熱を、どうして良いか分からないのだ。そしてそれと同時に、氷のように静かに心を蝕む冷たい孤独をも。
「もう、放っておいてくれ!! 目的は果たした。師匠の遺産を受け取った。お前が手にしているそれだ。返せ! そして二度と、俺の前に姿を見せるんじゃない。姿を見せるニンゲンは、姿を見せる罪で、全員引き裂いてやる!!」
どう猛な息には人ならざる熱が籠もった。そのターバンの下からは角がせり上がり、両手の爪が鋭く伸びる。
フォスが心配そうに、その周囲を巡る。
シャイードは荒く何度も息を吐き、昂ぶる精神を必死で抑えようとした。
胸の内に常にくすぶる炎のような憎しみを、言葉にして吐き出してしまえば、少しは楽になると思ったのに。
それは師匠の言うように、自らの身を焼いただけだった。
「そうか。やはり、お前さんの師匠が、元宮廷魔術師のサレムだったか。そしてお前さんは、盗まれた国宝のドラゴン。最後のドラゴンだ。……お前さんの気持ちはよく分かった。シャイード。確かにこれは、不幸な歴史だ」
フォレウスの声は静かだ。その瞳も、今は澄んでいた。口調に混じるのは、あきらめのような、哀れみのような、悲しみのような響き。
「お前さんの問いにゃ、俺が答えをくれてやる。――人間にとっちゃ、意のままになるドラゴンが良いドラゴン。そうでないのは全部、悪いドラゴンだ。お前さんが帝国に居てくれりゃ、無駄な争いを避けられる。無駄な死もな」
「そんなのは、貴様らの勝手な都合だ!」
喉奥を唸らせながら吠えたシャイードに対し、フォレウスは肩をすくめただけだ。
「そうさ、もちろん。でもみんな、その勝手な都合を正義だって言い合ってんだよ。分かるだろ? いいか。そいつら全部に通じる言語はな、”力”ってんだ」
フォレウスは一度目を閉じ、再びゆっくりと開く。帳が消し去ったのは、人間らしい感情だった。
「お前が飼い慣らされた安全なドラゴンとしてではなく、野生のドラゴンとして生きる道を選ぶのなら。俺も、……俺の語る言語を変えるしかない」
フォレウスの右手には、魔法のように唐突に魔銃が握られている。いつ抜いたのか、シャイードには分からなかった。
「はっ! 恐れ入ったね。軍人サマは勝手に行動できなかったんじゃないのか」
「残念ながらね。だが『ドラゴンの捕獲』が今回の任務だからな。これで命令通りなのさ」
歴戦の魔銃使いは冷たく笑う。
「魔竜シャイード。神聖帝国グレゴリオの名において、魔銃使いフォレウス=エル・エステモントがお前を捕獲する」
先ほどまでの”誘拐”ではなく、フォレウスは”捕獲”と言った。
(なるほど、俺は人間ではなく、晴れて獣と認定されたわけだ)
シャイードは満足とも落胆ともつかない複雑な感情でそれを受け止める。彼は片顔で不敵に笑った。
「やってみるがいい」
けれどもここで、本来の姿になるわけにはいかない。他の人間達が近すぎる。
存在を隠蔽しなくてはならない以上、全員を皆殺しにする覚悟でなければ本来の力はふるえない。
故にシャイードもクロスボウを構えた。安全装置を外し、フォレウスの心臓に狙いをつける。
互いに至近距離だ。外しようがない。
(殺せる)
(殺したくはない)
(殺さなくては)
「その”捕獲”とやらをな!」
シャイードは引き金を引いた。




