祈りの輪
その頃、地上では――。
祈りは祈りを呼び、輪になったスティグマータの共振力を媒体に二人の巫女の元へと集まっていく。
若い妖精樹は金色に輝いた。
力を拡大したシアには、土地土地の老木や巨木を通してその様子が見えた。シアはその情報量に圧倒される。
彼女が人間であったなら、顔を真っ赤にしていたところだ。
『大丈夫? シア』
『へいき。葉っぱに、分散して、処理してる』
シアは見たものをまとめ、人にも理解できる映像として世界に向けて発信した。そこにトウが、言葉や祈りをのせる。
短い夏を謳歌しているはずの北の王国では、突如巻き起こったブリザードから逃れ、人々が身を寄せ合っていた。
既にそれぞれの神に祈りを捧げていた人々は、トウの言葉を受けて、祈りを扉神へ向けた。
エルフたちは白森で起きた木々の暴走に対処すべく、不仲であったドワーフと会合を持ったところだった。邪悪な力で蠢く木と戦うには、ドワーフの持つ火や鋼の力が必要だ。
長い寿命を持つエルフと、石に記録を残すドワーフは、異変が厄災によるものだと気づいている。シアが近くの木々を通して語りかけると、しぶしぶといった態で隣人と手を取り合った。
遠いミスドラでは、魔法学院の占術師が凶兆を読み取っていた。オアシス国家を取り巻く砂の海は生き物のように蠢き、もはやどれ程腕利きの砂乗りであろうとも、砂船で渡ることは叶わない。
内海南岸の帝国自由都市との道を断たれれば、農地の少ないミスドラは、真綿で首を絞めるようにじわじわと餓死するしかない。
人々は急騰する食料価格に追い立てられるように、それぞれの神に祈っていた。
神託を受けた王は民を集め、扉神に祈るよう促した。
農村では妖精たちが、仲の良い者たちの前に姿を現し、祈りの力を持たない自分たちの代わりに扉神に祈ってほしいと訴えた。
ある者は頷き、ある者は疑った。
けれども結局、恐怖に脅かされた人間たちは、神に祈るしか方法がなかった。
少しずつ、だが着実に。
ヒトの祈りの輪が広がっていった。
◇
声を聞いた直後、シャイードの視力が回復する。
身体中の痛みが薄れ、活力が湧いてくるのを感じた。シャイードは両手に視線を落とす。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
クリアになった視界の端に、厄災が映った。
ハッとして身構えたが、金竜は空中で静止している。その身体が、虹色の光に包まれていた。
コツン、と石畳を打つ硬質な音が下から響く。
「重力の魔法だけは、厄災に影響を与えられる。重力は世界膜を超える力だからな。そして時の魔法とはすなわち、重力の魔法だ」
シャイードは声を振り返った。
そして瞳をめいっぱい見開く。
そこに立つ人物が、あり得ない者だったからだ。
大柄な身体に純白のローブを纏い、複雑な模様の刺繍された深緑のストラを肩から下げている。
長い髪は首の後ろで一つにまとめられ、前髪は金のサークレットでおさえられていた。
右手に、天球儀が取り付けられた杖を持っている。
ずっと前に死んだはずの男。
不老の力を持ち、千年の時を超えて厄災を倒すべく、準備していた男。
シャイードを卵から孵し、育てた……
「サレム!? な、なんで? 一体どこから湧いた!?」
男は杖に寄りかかりつつ、癖のある笑みを浮かべた。顔はシャイードに向いているが、瞳はどこか遠くを見ているように焦点が合っていない。
「なんだなんだ、人を蛆か何かのように。私なら、最初からここにいたぞ」
「いや、俺が来た時には誰も……」
謎かけのような言葉と共に悪戯っぽく微笑む師。懐かしい感覚だ。サレムは良くこうして、シャイード自身に答えを考えさせた。
確かに、誰もいなかったはずだ。
だがそれはおかしい。
ここには千年前、厄災を封印した――いや、時間を止めたのだったか――、英雄たちがいたはずだ。
シャイードは唾を飲み、周囲を見回す。
「石像が、一つなくなっている」
男は笑みを深め、頷いた。
「もうわかっただろう。つまり残念ながら私は、お前の師サレムではない。私の名はセイラン。イズラシャルドの魔術師だ」
シャイードは瞬いた。サレムではない? 目の前の男は、サレムに瓜二つだ。違いがあるとすれば、髪の色くらい。サレムは半白だったが、セイランと名乗った男の髪は黒い。
「とはいえ、サレムは私のようなものなのだが」
男は言って、ゴホッと咳き込んだ。
「どういう、意味だ……?」
「彼は私の分霊体なのだよ、シャイード。お前のことは時の檻に閉じ込められている間、彼を通して見守っていた。……成長したな、シャイード」
「……!」
サレムではないと言われても、師匠と同じ顔で、同じ声で、同じように優しい言葉を掛けられると、シャイードの目の奥が重く痛んだ。シャイードは鼻をすすり、涙が零れないようにする。
ごまかすように、厄災へと目を向けた。
「アイツはどうなったんだ? 倒したのか?」
「……いいや。一時的に時を止めただけだ。余りもたない」
セイランは急に厳しい声で言ったあと、何度か咽せた。
「私がしてやれるのは、どうやらここまで。すまない、シャイード。……あとを頼む」
魔術師の身体が揺れた。そう気づいた次の瞬間、彼は片膝をついてうずくまっている。
「お、おい! 大丈夫か!?」
シャイードは両手をついて首を巡らせ、魔術師を正面から覗き込んだ。伏せた顔の下に、血が流れている。良く見れば、白いローブのあちこちから血が滲んでいた。
「怪我しているじゃねえか! 早く治癒の魔法を……」
「私は神官ではなくてな、シャイード」
「でも、さっきは俺の傷を治して、」
シャイードは言葉を飲み込んだ。一つの可能性に思い至る。
「まさか……」
以前、アルマが言いかけたことがあった。メリザンヌと戦ったあと、彼女の手当をしているときだ。
神性魔法が治癒を得意とするせいで、呪性魔法において回復の術は発達しなかった。方法がないわけではないと前置いてアルマが口にしたのは、生け贄という言葉だ。
誰かの生命力を身代わりにして回復させる。そういう意味だとシャイードは受け止めた。
サレムは――いやセイランは、シャイードの怪我を自らの身に引き受けて回復させてくれたのだろう。
「最後まで……見届けたかった、が、難しい…ようだ……」
ついに魔術師は倒れ伏す。手から離れた杖が、石畳にぶつかってガランと音を立てた。
「師匠!」
違うとわかっていても、そう呼んでしまった。
嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ、嫌だ!
二度も師匠を失うなんて、嫌だ。
『……』
シャイードの脳裏に、念話が届く。
その言葉に、シャイードはボロボロと涙を流した。酷いことだ。師匠は黒竜であるシャイードがその言葉で苦しむのを知っているはずなのに。
胸が痛い。痛くて痛くて、耐えられない。堪えようとしても、喉の奥から嗚咽が零れた。
倒れたセイランに手を伸ばす。だが、触れることは出来なかった。
白い光線が、彼のいた場所を抉ったのだ。
ジュッと濡れた蒸発音がした。
「あ……、あぁ、あああ……」
後には黒い人型の焦げ跡が残るだけ。シャイードは背後によろめきながら顔を上げた。
涙でにじむ視界の中、厄災を包んでいた虹色の光が消えている。
光線はその手から放たれていた。
厄災は口を大きく開いて笑っている。
シャイードは口を開けたまま、荒い息をついた。喉が激情で震える。
「許さねえ……」
金竜は笑みを深くした。三対の瞳でシャイードを見ている。その指先がシャイードに向いた直後、光条が放たれた。しかし光は防御姿勢を取ったシャイードを打ちすえず、横に逸れた。
顔を上げると、目の前にフォスがいる。
「フォス!? 無事だったか!」
『いまおきた! にぃにのもらったやつ、もらったから』
フォスはふわっと光った。
相変わらず要領を得ないが、察するに先ほどシャイードを苦しめた師の最後の言葉だろう。シャイードの力を奪う言葉が、フォスには力を与える。
厄災がさらに光条を撃ち出す。フォスが翼で弾き、軌道を曲げた。
『フォス、これへいきだもん』
「助かる!」
シャイードは厄災を睨み付ける。厄災はまだ笑みを浮かべていた。
『にぃに!』
突如、フォスが叫んで横を示した。厄災に顔を向けたまま、瞳だけを動かす。
その先で、扉が開いていくのが見える!
「来たか!!」
反撃の刻だ。




