アルマの教え
シャイードは尻尾の巻きと逆方向に回転した。すると、ぐるぐると巻き付いていた尾は三重、二重、一重となって、最後は腕の力で外すことが出来た。簡単なことだ。
だがこの隙に、厄災は魔法を使っていた。
地面に幾つもの黒い染みが生まれ、そこから手が伸びてくる。
(やっぱり学習してやがった!)
シャイードは高度を上げる。
が、それでは厄災に、別の魔法を使う暇を与えるだけだ。案の定、瓦礫が幾つも飛んできた。
シャイードは高速で飛来するそれを飛行で躱しつつ、扉神を見遣る。
まだ開かれない。
(何やってんだ、シア……! マジで頼むぜ!)
苛立ちながら大きな瓦礫を避けたその時、目の前が突然真っ白になった。強烈な光だ。
「ぐっ!!」
(目が……!!)
視力を失い、シャイードは両目を押さえる。
(ヤバイ。ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!)
網膜が焼かれた。すぐ目の前にあるはずの手すら見えない。
直後、身体のあちこちに熱を感じた。
ドラゴンであるシャイードは熱に強い。その彼の鱗を、焼けつくほどに炙る熱。
先ほどの光と考え合わせ、シャイードは気づいた。
(これは……ルミナス・カーバンクルの!?)
熱い。痛い。
シャイードは逃げようとするが、光の速さで到達する魔法からは逃げようがない。
「!!」
突然、がくんと高度が落ちた。
(翼をやられた!)
翼の皮膜は薄い。左の翼が受けた痛みと熱は、遅れてやってきた。シャイードは激痛に顔をしかめる。
落下しながら何度も瞬く。目は、まだぼんやりとしか見えない。
しかし下には夢に落とすあの黒い染みが待ち構えているはずだ。シャイードは羽ばたこうとするが、損傷した左翼はうまく風をはらんでくれない。落下しながらふらふらと不格好に回転するだけだ。
ついに、黒い腕につかまった。
またしても、どろどろとした水たまりの中へ引き込まれる。
シャイードは手足をばたつかせてもがく。
(どうすればいい? どうしたらいい?)
高速で思考を巡らせた。
翼は動かない。
目もよく見えない。
身体はがっちりと掴まれている。
強い力で引きずり込まれ、再び夢に囚われようとしている。
扉は、開いたのだろうか? わからない。
誰の声も聞こえない。
誰の助けも得られない。
……。
(駄目だ、どうにもならねえ! 次に夢に落ちたらもう)
――次!
その言葉が、電撃のように全身を打った。
『……だが次は、今回の経験がある。もっと上手く盾を使えるようになるであろう……』
アルマの声が脳裏に蘇る。
そう、あれは魔法抵抗について、彼から教えを受けたときだ。
『意にそぐわない現実を押しつけようとしてくる力には、体内の魔力や生命力を活性化して防壁を作り、抵抗をする。斬撃を、盾で弾くようにな』
(そうだった! さっきはアレが、夢に落とす魔法だとはわからなかった。でも今はもう知っている!)
シャイードは役に立たない目を閉じた。暴れるのを止めたので、彼の身体は急速に黒い夢に引きずられる。
◇
『良かった、シャイード。戻ってきてくれたのね』
母の優しい声がする。
シャイードは目を開かない。
(俺の大事な記憶を、勝手に利用しやがって!)
『にぃにー』『にぃに、どこいってたの』『遊ぼう、にぃに』
次々にじゃれついてくる弟たちの声。
(弟たちは死んだ。殺したのはウェスヴィア。けれどそれは厄災を倒すためだった。……全ては厄災の、アイツのせいだ!)
シャイードは心を奮い立たせる。
(母さんのためにも、弟たちのためにも、……こんな夢を受け入れるわけにはいかない!! 俺は、俺は、この魔法を否定する!!)
シャイードは目を閉じたまま、渾身の力で夢を引き裂いた。母を、幼い弟達を、産土を、大切な記憶を。
母や弟たちは、悲痛な声を上げた。心が軋む。
シャイードの閉じた瞳に涙がにじんだ。それでもシャイードは、夢を壊し続けた。
◇
シャイードは両足が、しっかりと地面を捉えていることを自覚する。
取り巻くのは風の音。
目蓋を開いた。
周囲の様子は、まだぼんやりとしか見えない。だが、どうやら浮島に戻ってこられたようだ。
シャイードは肩で息をしていた。
夢を破ることには成功したものの、精神的に疲弊した。肉体もボロボロだ。
(扉は、……まだなのか!?)
わからない。見えない。
ぼやける視界の中、金色に輝く塊が動くのが見えた。
シャイードは両腕を前に出し、厄災の次なる魔法に備える。
「ふぐっ!!」
突然、巨大な力で石床にたたきつけられた。とてつもない重量が、全身にのしかかっている。腕も足も翼も首も、まるで動かせない。
身体中から、メキメキと骨が軋む音がした。
息が出来ない。
声も出ない。
身体の下で、石畳が割れて地面が凹む。
瞳を動かし、自分の上を見るが、厄災の姿はない。踏まれているのかと思ったが、これも魔法のようだ。
(これ、は、重力、の……)
バキリと肋骨の折れる音がして、シャイードは口から血を吐いた。気が遠くなる。伸びた腕の先で、石畳に爪を立てる。
その程度しか動かせない。
(ここまでか)
悔しさに目を瞑った。
爪の先に、何かが絡みつく。風に飛ばされて来た小さくて平たい何か……
『シャイード』
聞き覚えのある声が、すぐ傍で聞こえた。シャイードは閉じていた目蓋を、僅かに見開く。
(今のは、アルマ? 幻聴か)
『よく聞け。汝なら重力を操れる』
(なに言って……、俺にはそんな力)
『今までも、無意識に操っていた。ドラゴンは翼の力のみで飛ぶのではない。それは物理的に不可能だ。ドラゴンは皆、無意識に重力を操って飛んでいる』
(……)
『意識をしっかり持て! ”重くない”と唱えよ。イヴァリスを運んだときの感覚を、思い出せ』
(……)
『シャイー……』
爪に絡みついた魔導書の切れ端は、風に飛ばされてしまった。
(……ない)
シャイードは巨大な重力に身体を潰されながら、必死で意識を保とうとした。
(重く、ない……)
(重くない)
(重くないっ!)
「こんなもの、……重く、ねえっ!!」
がぼがぼと血を吐き出しながら、肺の中に残った最後の空気で叫ぶ。のしかかっていた圧迫が突如として消失した。
それでも、身体が重い。
シャイードは彼を中心にクレーター状につぶれた石畳の上で、必死に身を起こした。
息を吸い込むと、すぐに咽せた。唇から垂れる血を、片腕でぬぐう。
全身の骨が痛んだ。何本折れているかわからない。ヒビは無数に入っているだろう。
けれど彼は、自分の身体は重くない、と念じた。
そうだ。
人の姿をしているときには、確かに軽かった。
変身をするとき、ドラゴンとしての余剰の質量は重なり合う別の次元に収納されている。折りたたむ、とサレムには教えられた。
同じ事をすれば良い。
空を飛ぶときや、重力を無視したような旋回をするときには無意識に行っていたことだろう。それを意識的にする。
「まだ……、まだ。俺は、ほんき、……出して、ねえ、し……」
彼はふらつきながらも立ち上がり、ぼんやりとする金の塊を見上げた。そちらに向けて腕を伸ばす。指を突きつけた。
「これ、……から、が、いいところ、……だぜ?」
「よくぞここまで耐え抜いた、シャイード」
すぐ傍で、誰かの声がした。




