死王の仕返し
ラザロは薄暗い城の地下書庫で、本に埋もれて研究を続けていた。
現世界の黒い城は、千年前の厄災に砕かれて既にないが、冥界には現世界の記憶を映した城がしっかりと固定されている。
それは今もこの城の内部を彷徨う、死者たちの記憶だ。
ラザロが今、ページをめくっている魔導書もそうだ。誰かの記憶。
そう、おそらくは――
彼は右手を見た。人差し指に、鈍く輝く不気味な意匠の指輪がはまっている。中央の宝石は血走った目玉のようで、骨で出来た小さな手が、それを両側からつかんでいる。
死王の指輪。
そこには死霊術の祖、マギウス王の魂が染み込んでいた。
今、死王の魂は、ラザロのそれと分かちがたく結びついている。彼は自分であり自分は彼だ。もはや記憶がどちら由来のものか、咄嗟にはわからなくなっている。
「研究はまだ半ばだ。死霊術は奥が深い……」
地下書庫は静かだ。大きな木製のテーブルには、古びた本の山が幾つも作られている。
足元や、背後にまで積み重なっていた。
右手で羊皮紙にペンを走らせ、左手で書物のページを繰る。
ラザロは満ち足りていた。
だから、書庫の入口扉ががたがたと小さく鳴っても、気づかなかった。意識の底で気づいていたとしても、風の音か何かだと打ち消したのだ。
「どえやあああ!!」
突如、ボガーン! とすさまじい音が響き、扉の蝶番が吹っ飛んだ。
続けて扉本体が内向きに倒れ、上辺が机に積み上がっていた本に当たった。
本の山が崩れてくる。
「ぎゃ……む!」
作業に深く集中していたラザロは、何も出来ぬままに落ちてくる本に埋もれた。
「げほっ、ごほっ! なんでこんなに、埃っぽいの……っ」
口元を押さえながら倒れた扉を跨ぎ、ディアヌが室内に入ってきた。右手には戦棍を持っている。
彼女は壁の傍で燃える炎――燃料もなく、紫色に燃えている――の明かりを頼りに、室内を見回した。
「あれっ? ここにもいない……?」
「いる……ぞ……」
崩れた本の山が、ごそごそと動いた。ほっそりとした青白い手が生えて、ひらひらと踊っている。
「ラザロさん!? 何で本に埋もれているんです?」
「なんで……だろうな……?」
ディアヌは床に積み上がった本の山をひょいひょいと避けてラザロに近づくと、彼の上から重そうな本を退かしていった。
「あやうく死ぬところだったぞ」
助け出されたラザロは、恨めしげな表情でヨルの神官を睨んだ。彼はとっくに死んでいる。今のラザロは死王だ。
ディアヌは言葉に詰まった。彼のセリフが、冗談なのか本気なのか、わかりかねたのだ。
「ハッ! 今はそんなことはどうでもいいんですよ! 外が変なんです、ラザロさん!」
ディアヌは気を取り直し、ラザロの黒いローブをつかむとがくがくと揺さぶった。
「ややや、やめんか! 骨がずれる、骨が!」
ディアヌは手を止めた。ラザロは鋭くため息をついて億劫そうに立ち上がり、まだ手に持ったままだったペンに気づいてそれを置いた。
「全く。いちいちうるさい女だな、貴様は。破壊せずに何かをやり遂げることは出来んのか」
ディアヌはムッとして、眉を吊り上げた。
「この城、どこもかしこも建付が悪すぎるんですよ! 古いし汚いし、掃除してもすぐに元に戻っちゃうし」
「吾輩は別に気にならん」
「私は気になるんでーすー! ほら、早くして下さい、もうっ!」
ラザロは自分で積み上げた本の山に足を取られて転びそうになりつつ、急かすディアヌを追って入口へ向かう。通り過ぎた扉をちらと見ると、それは自動的に立ち上がってはじけ飛んだ蝶番が填まり、元通りになった。
階段を昇り、地上に出ると異変はすぐに感じ取れた。どんよりとした曇り空はいつものことだが、その雲が、七色の不気味な光に彩られて不自然に渦を巻いているのだ。
「うお。あれは……!」
その現象に、見覚えがあった。
彼の大切な国を滅ぼした千年前の厄災――それが現れたときの空だ。その後、天から大量の隕石が降り注ぎ、都市は滅んだ。
動いていない胃の腑が、きゅうと縮こまるような嫌な感触がある。
(思った以上に早いではないか……!)
その時、ラザロはまた別の感覚に襲われた。意識下にあった見えざる魔力の糸の一つが、ぶつりと断ち切られる感覚だ。
ラザロは柱に片手をついて身体を支える。ディアヌが顔を覗き込んできた。ショックが顔に出ていたのだろう、ディアヌは目を丸くした。
「大丈夫ですか、ラザロさん!?」
彼女は背中に手を当てて、撫でさすってくる。死した身体にそんなことをしても無駄だというのに、どうも彼女はわかっていない。
無駄なはずだが、彼女の温かい手に撫でられていると、ラザロの気分は上向いた。
「……。誰かが吾輩の”猫ちゃん”を壊しおった……! シャイードか? あれほど壊すなと念を押しておいたのに」
ラザロは照れ隠しに憤慨してみせた。
「シャイードさん?」
「……。或いは……、帝都で何かあったのかもな」
「ええっ!? それなら急いで救援に向かわないと! 助けに行くんですよね、ラザロさん?」
「いや。吾輩には関係ない」
首を振りかけて、ラザロは目を瞑った。ディアヌが見守る中、十秒ほどそうしていたが、やがて目蓋を開く。
「とはいえ、どうやらあれも吾輩の国であるようだ。二度も壊されるのは流石に癪に障る。それにまあ、新たに試したいことも出てきたしな」
「つまり助けに行くんですね、ラザロさん!」
ディアヌが目を輝かせた。彼女は不気味な空に向かって、拳を突き上げる。
「うぉっしゃーーーっ! 待ってろよ、悪者!」
「長生きしそうにないな、貴様は……」
ラザロは深いため息をついた。




