不穏
巣穴の中には垂直に近い通路もあったが、難所にはロープを掛け渡して対処した。
手持ちのロープはすぐに尽きたが、調査隊から補充できたので物量には問題がない。
氷で通路がふさがれているところは、フォレウスの魔銃で穴を開けて貰った。白蛆にこそ効果が薄かったが、魔銃の破壊力は侮れないものがある。
長い斜路にさしかかったとき、シャイードは前方から新鮮な風を感じた。
「もうすぐだぞ、アイシャ」
「えっ、ほんと?」
アイシャの顔は疲労でほとんど青白い。だが彼女はシャイードの左手をしっかりと握り、弱音一つ吐かずについてきた。
傾斜は比較的急だったが、この辺りはもう凍っていない。
前方が次第に明るくなってきた。最後だけ、数メートルの縦穴になっている。
その底にやってくると、シャイードは手を離し、目の上に手でひさしを作って見上げた。
「……よし。ちょっと待ってろ。フォス、お前もだ」
ついてこようとした光精霊をアイシャの傍にとどめ、シャイードはロープを肩にかけ直す。
そして狭い縦穴の小さな突起に次々に足を掛け、身軽に昇っていった。
「すっごいなぁ……、シャイード」
アイシャはその人間離れした軽業を、尊敬の瞳で見上げていた。
シャイードは飛び出す前に穴の縁に手を掛け、懸垂の要領で周囲の様子をうかがう。辺りは静かで、木々に囲まれていた。森の中だ。
穴の周囲は地面より一段、高くなっている。ぽろぽろした不思議な手触りの土団子が掌に触れていた。
(どの辺りだ……? 巣穴が複雑だったから、見当がつかん)
目を眇めて安全を確認した後、穴から飛び出した。
地面に落ちる午後の陽光は木々の葉に弱められているが、それでも、暗闇になれた瞳には充分過ぎるほど明るい。
何よりありがたいのは、新鮮な空気だった。
シャイードは開放感から、思い切り深呼吸をする。
「ふう。……何とか戻ってこれたな」
安堵の息とともに独りごち、すぐ近くの太い幹にロープの先端をしっかりと結びつけた。
体重を掛け、ロープが外れないことを確認して、もう一端を穴の底へと放る。
ロープには予め、登りやすいよう数十センチごとに結び目が作ってあった。
「……いいぞ。上がってこい」
声を張りつつ、縦穴を覗き込んだ。
「シャイード、これはどうすればいいー?」
下に声を掛けると、アイシャが底でクロスボウを掲げ、ぴょんぴょんと跳ねているのが見えた。
「あ、そうだな。じゃあ、まずそれをくれるか」
「分かったー!」
アイシャがロープの先端を拾い、クロスボウを結びつける。シャイードはそれを引き上げ、クロスボウを回収してからもう一度ロープを放った。
「登れるか? それとも引っ張り上げ……」
「登ってみたい!」
アイシャはガッツポーズを作り、自分の腰にロープを巻く。
それから両手をロープに、足を縦穴に掛けて、垂直の壁を登り始めた。
下ではフォレウスが、彼女が失敗して落ちてきても支えられるように、構えてくれている。
アイシャは以前に自分で言ったとおり、腕の力がそれなりに強いようだ。ロープで垂直登攀など、慣れていなければ相当難しいのだが、縦穴が狭いのを利用して両足を踏ん張って休みつつ、堅実に昇ってくる。
だが、疲労しているのも確かだ。
「きゃ……!」
あと少しというところで、足を滑らせた。
「おいっ!!」
見ていたシャイードは、心臓が握りつぶされるような驚きと共に手を伸ばす。全然届かなかった。
アイシャは数十センチほど手を滑らせたが、結び目のところに引っかかり、何とか踏みとどまる。
「だい……、じょぶ」
顔を上げ、シャイードに向かって笑顔を作ってみせる。
だがこの時、アイシャが腰につけていた魔導書が落下した。下で構えていたフォレウスの腕に本が落ちる。
「おっとっ! ……んんー? この本は……」
フォスの明かりで魔導書を確認したフォレウスは、開かれたそのページを一瞥した。
ページには何も書かれていない。
だがフォレウスの表情は急に険しくなる。
「よい……、しょ、っと」
穴の縁までたどり着いたアイシャに、シャイードが手を貸す。
彼女を引っ張り上げ、その勢いのまま、二人して土塊の山に座り込んだ。
アイシャは両手を前について呼吸を整えた後、顔を上げ、瞳を大きくしてシャイードを見た。
口元が、笑みを堪えたような形になっている。初めての挑戦をやりきった、喜びと誇らしさが混じり合った表情だ。
シャイードは眉尻を下げて口端を持ち上げる。両足を前に投げだし、背後に左手をついた状態で、右手をひらりとさせた。
「あーあ、降参。……すげーやつだよ、お前は」
「えへへ。そうでしょ?」
アイシャは膝立ちになり、両手を腰に当てて胸を反らした。
その際、彼女が腰に巻いていたスカーフが緩んでいることに気づく。
笑みから一転、シャイードは両足を引き寄せて膝をつくと、アイシャのケープをめくり、背後を覗き込む。
「……お前、……魔導書はどうした?」
「ここだよ、シャイード」
声は穴からだ。
顔を上げると、穴の縁からフォレウスが頭を覗かせている。彼は縁に手を当てて身体を持ち上げ、穴の傍に立った。服の裾についた汚れを手で払う。
「やれやれ。酷ぇ目に遭ったもんだ。けどお前さんのお陰で、無事生還できたな! ありがとよ」
フォレウスはシャイードに向けて笑顔を浮かべた後、リラックスした様子で背伸びをする。
魔導書は、彼のベルトに挟まれて脇腹の前にあった。
「あっ! 返せ……っ」
シャイードが立ち上がりながら慌てて手を伸ばすのを、フォレウスは数歩下がって躱した。
「まあ落ち着けよ、シャイード。お前さんにも、俺の大事な短刀を預けてあんだろ」
「それならすぐ返す」
シャイードは腰に手をやり、短刀をその鞘ごとベルトから外そうとする。
フォレウスは両手を挙げて肩をすくめ、首を振った。
「あーあ。それで確信しちまったよ。……お嬢ちゃん」
「は、はいっ?」
突然呼びかけられ、アイシャは身を固くした。
「さっきは話が途中になってたが……。お前さんの身体を借りていた奴ってのは、こいつだな」
フォレウスは魔導書を片手で持ち上げて見せながら、アイシャに語りかける。質問と言うよりも、確認の響きがあった。
アイシャは正直に答えるべきか迷ったあげく、シャイードを見た。
それがフォレウスにとって、答えよりも明確な答えだ。
そうしている間にも、穴の底からは次々と帝国兵が上がってくる。
フォスも上がってきて、シャイードの傍らに留まった。
シャイードはフォレウスと巣穴の間に位置していた。アイシャは左後方だが、シャイードは手を振って、もっと下がるように指示を出す。彼女は胸の前で手を組み、心配そうな顔で素直に従う。
「フォレウス。……どういう、つもりだ」
シャイードは半眼でフォレウスを睨んだ。
金の瞳が剣呑な輝きを宿している。腰の剣を外そうとしたまま手を置き、いつでも抜ける姿勢だ。
対するフォレウスは、片顔に笑みを張り付かせたまま、相変わらずリラックスして立っている。
「別に。どうもこうもないさ。俺ぁただ、秘密って奴が大好物でね」
フォレウスは威嚇するシャイードは意に介さず、魔導書を開いてぱらぱらとページをめくった。
「最後のドラゴンだとか、意志を持つ白紙の魔導書だとか、ね」
シャイードにだけ届くよう、制御した声量で口にする。
穴から上がってきた帝国兵達は後続を補助しているが、初めに出てきた一人は、副長と案内役の間に漂う緊張感に気づき、二人を見比べていた。
(まずいな……)
シャイードのこめかみに、冷や汗が一筋流れた。
自分一人ならばなんとでもなる。
だが今はアイシャがいる。
そして時が経過するごとに、帝国兵は増えていくのだ。
「おーい、お前ら。俺とシャイードちゃんは、すぐそこまで連れションに行ってくるからよ。お嬢ちゃんを頼むわ。こっち来ンなよ!」
フォレウスは唐突に兵士たちに言い、シャイードに向けて人差し指を上向けて前後に動かした。
逆の手には魔導書。
シャイードに選択肢はなかった。クロスボウを拾い、フォスを引き連れて森の中へと入っていく。




