アルマの世界
王宮の尖塔からシャイードは眼下のやりとりを黙って見つめていた。
窓枠に顎を載せ、半眼でため息をつく。
「どうにも雲行きが怪しくなってきた」
「そのようだ」
アルマが隣から下を覗き込んだ。
「幻夢界からヒトの深層領域に祈りを植え付けるというアイディアは良かった。あやつらは普段よりも神を信じたい気持ちになっている。だが、やっかいな宗教が根付いていたものだな」
「ああ。これじゃあヒトの持つ共振力を、扉神に届けられん」
「神を発明するのはヒトの特権だからしかたあるまい。こういうこともあろう」
シャイードはさらに大きなため息をついた。姿勢を戻し、アルマの方に向き直る。
「こうなったらやるしかないか」
「ショック療法だな。だがいいのか、シャイード? これは汝自身の存亡に関わる重大な選択だぞ」
「……」
シャイードは沈黙した。眉根を寄せて、目蓋を閉じる。
本音を言えば、嫌だ。やりたくない。
ずっと避けてきた道だ。選択してはいけない道だ。そうしないために、そうならないために、サレムはずっと尽力してくれた。
それを無に帰すことになる。
「俺は、いずれ追い詰められ、殺されるかもな。母さんみたいに……」
目を開き、シャイードはぽつりと言った。そして握り拳を作る。
「でもどのみち、ここでやらなきゃみんな死ぬ。世界は滅ぶ。希望は扉神に扉を開かせることだけだ」
アルマはシャイードを見つめたあと、すっと腕を伸ばして向かいの肩に手を置いた。
「或いは今すぐに、汝を我の世界に連れ帰ることも出来る。昼も夜もない。上も下もない。何もない世界だが、永遠だけはある。我はずっとそこに独りで存在した。引き延ばされた時間軸の中、零と一との間の時の中、存在していることも自覚できぬままに。汝が共に来れば……我らの間に情報が生まれる。そこから新たな世界が始まるかも知れない。世界は情報から、始まるのだから。汝は我に、その鍵を渡すだけで良い」
シャイードは目を見開いてアルマの言葉を聞いていた。アルマが自分の世界について話すのは初めてだ。
アルマは肩に乗せていた手を裏返し、掌をシャイードの目の前に差し出した。
「汝が選んで良い。死や消滅よりは、……よかろう?」
シャイードはアルマの白い掌をじっと見つめる。
しばらくの間のあと、彼はふ、と笑った。
「なんだか懐かしいな」
思い出したのは、アルマとの出会いだ。魔導書は幻夢界から干渉し、氷漬けになったシャイードの夢に現れ、鍵を寄越せといってきた。何の説明もなしに。
アルマはあの時と同じ無表情で、手を差し出している。
シャイードはもはや彼に恐怖を覚えていないことに気づいた。相変わらず、竜の本能はアルマの強大な力を感じ取っている。けれどそれは頼もしいものであって、もはや恐れる対象ではないのだ。
シャイードは無言で首元に手を差し込み、革紐をたぐって鍵を取り出した。
師匠から託された大切な鍵。
アルマをこの世界につなぎ止めている鍵。
彼の世界へと繋がる扉を開く鍵だ。
シャイードはそれをしばらく見つめたあと、アルマの掌の上に気軽に載せた。
アルマは目を見開いた。
明らかに、驚いている。
「まだ返すとは言ってないぞ」
シャイードは視線を横にずらし、素早く付け加えた。それから言いづらそうに唇をとがらせて、さらに続ける。
「今、お前にいなくなられると困るからな。けれどもし、俺が失敗したら――、その時は好きにしろ。俺は一緒には行けねえけど」
シャイードはふんと鼻を鳴らす。それからアルマと目を合わせた。片顔で笑う。
「だってお前の世界、めちゃくちゃつまらなそうだし」
アルマは首を振った。
「汝がいれば……、我は我の世界に全てを作り出すことが出来るのだぞ。汝がそうしたければ、ドラゴンも、ここと同じような世界も、ヒトも」
「すげえな、それは。本物の神みたいじゃね?」
「我は”理”にして”大いなる御業”だ」
シャイードはアルマが先ほどやったように、彼の肩に自分の手を乗せた。身長差のせいで、見上げる形になるのが格好つかないが。
「よくわからん。お前はただのアルマだよ、俺にとっては」
それから彼は振り返って窓枠に片手を置き、軽々とその上に飛び乗る。しゃがんだ姿勢で、アルマを振り返った。左手を差し出す。
塔を上ってくる風が黒髪を撫で、マントを大きくはらませた。
「行こうぜ! ここからは主役の出番だ!」
二人は手を繋いで窓枠に並び、飛び降りた。
◇
「おお、思い起こせば奇妙でした。スティグマータが脱出を図り、成功させたあと。陛下はその行方を深く追うことなく、捨ておきました。逃亡奴隷に対するにしては、随分甘いことだと不思議でしたが、得心がいきましたぞ」
「よくもそのような出任せを!」
レムルスは怒りに震えた。だが民はざわついている。
(駄目だ。僕の言葉が届かない……)
民衆は、スティグマータという単語に拒否反応を起こしてしまった。そこをエルデンに巧みに誘導され、幼い皇帝が騙されているかもしれないという考えを信じかけている。
またしても、見た目が足を引っ張った。
(僕が夢の中と同じくらい、立派な青年だったら、同じ言葉を口にしても説得力が違っただろう)
レムルスはそのもどかしい現実に、全身をかきむしりたくなる。
その時、空から突風が吹き下ろした。
「陛下! 危ない!!」
クィッドが素早く飛び出し、レムルスの前に立ちふさがる。
彼の体躯をもってしても隠しきれない、巨大な存在が視界を横切った。
「ド……」
「ドラゴンだーーっ!!」
眼下から悲鳴が上がる。
黒竜は、突如として城の上空に出現した。
漆黒の鱗を輝かせ、翼の巻き起こす風は眼下のありとあらゆる布地をはためかせる。シャイードは悠々と王宮の上を旋回し、金の瞳で眼下を睨んだ。
そして、雷鳴のように腹に響く低音で咆哮をあげる。
群衆は即座に恐慌状態に陥った。途端に重なり合う悲鳴。我先に逃げようとして、門のそばでつまった。門の外も人で埋まっているせいだ。
シャイードは面白そうに口元を歪めた。
「シャイード。やり過ぎは良くないぞ」
「……そうだった」
つい本能のままに、人間たちを踏みつぶしたくなってしまった。
やはり自分の性は、邪悪なのだと自覚する。
だが今の彼には、”理性”がついている。頭の上に、白い衣装に身を包んだアルマが乗っていた。フォスもいる。
「陛下! 室内にお下がり下さい!!」
クィッドが懇願する。だがレムルスはその脇から顔を出してドラゴンを見つめた。
「大丈夫だ、クィッド。あれは僕の友達なんだ」
少年の瞳が輝いている。その声は、先ほどまでとはうって変わって、誇らしさと喜びに満ちていた。




