二柱の神
翌朝。すっきりとしない曇り空の下、皇帝陛下から直々の達しがあると聞き、民衆の多くが王城へとつめかけていた。
門は開かれ、兵士たちが守護する中、人々は中庭に集まる。身分の別なく、やってきた者たちは歓迎された。
結婚式にあわせて既に帝都入りしていた他国や地方の貴族や使節の一部は、代理人を派遣した。中には商人のふりをして、自ら足を運んだ者もいる。彼らはとにかく帝都の外や本国の情報に飢えていた。
入りきれなかった者たちも、門の外で言葉を交わしあいながら心配そうに情報を待っている。
時間になり、レムルスが王宮のバルコニーに姿を見せた。
民衆にはわからないが、彼の周りを魔法の力場が取り巻き、不測の事態に備えている。
背後には直属護衛官のクィッドと守護の将グラドノフも控えていた。
エローラはまだ皇妃ではないため、今日のところは屋内からバルコニーを見守っていた。彼女の相手はファティマが務めている。
宰相のナナウスと宮廷魔術師長のトゥルーリ老、幾人かの議員もいた。新たに彼らの末席に加わったクルーセスもだ。
レムルスが片手を挙げると、人々のざわめきが次第に収まっていく。
無数の瞳が、少年の一挙手一投足を見守っていた。
レムルスは目蓋を閉じ、息を吸い込む。
「帝国はいま!」
彼の声は、広場の隅々にまで響き渡った。身につけたペンダントに仕組まれた、拡声の魔法の効果だ。
「いいや、この世界はいま! 滅亡の危機を迎えている。千年前に英雄たちによって滅ぼされたはずの厄災――”滅びの魔神”が復活したからだ。余の口からこの事実を告げねばならぬことを遺憾に思う」
レムルスの言葉は最初、人々の上を無為に吹き抜けた。
人々は耳にした言葉の意味を捉え損ねた。一拍遅れて言葉の意味を理解した後も、にわかには信じられなかった。
何かの冗談ではないか?
そう思い、口元に歪んだ笑みを浮かべた者もいた。呆けた顔で見交わす者もいた。眉根を寄せて、腕組みをする者もいた。
そしてすぐに信じ、怯えた者も。
ざわざわざわ。
静まっていた人々が、思い思いに言葉を発し始める。
レムルスはその波が高まり過ぎる前に、再び唇を開いた。
「帝都の周囲に異形の魔物が出現したという噂は、既にそなたらにも届いておろう。これも事実だ。幸い、兵士らの尽力により、現時点では帝都内部への進入を許してはいない。異形の魔物は倒すと、塵になって消え失せる。故に、あれらがどういった魔物なのか、分析は進んでいない。強さについては個体差があるようだが、少なくとも撃退することは可能だ」
人々は静かに先を待った。この皇帝は、自分たちを守ってくれている。少なくとも現在までは。
レムルスは民を安心させるように頷く。
「ただ一つ、確かなことがある。あの異形どもは”滅びの魔神”が復活したことにより現れたということだ。千年前にも、世界中が様々な厄災に見舞われた。我々が生き残るためには、魔神を倒さねばならない。だが――」
レムルスは言葉を切り、間を置いた。中庭は静まりかえっている。
「だが、千年前の英雄たちにもそれは”出来なかった”。そう。出来なかったから、今、このような事態に陥っているのだ。千年前と言えば未だ魔法王国が力を持っていた時代だ。厄災によって急速に衰退し、続く人竜戦争によって息の根を止められた文明だが、当時は今よりも世界に満ちる魔力が強く、強力な魔術師も沢山いた。にもかかわらず、魔神を滅ぼすことは出来なかった。翻って今の我々には、どんな武器があるというのだろう?」
レムルスの問いかけに、民衆は戸惑う。そんなことはわからない。それを考えてくれるのが、皇帝や貴族なのではないのか。
我々は労働という義務を果たし、税を支払って国を支えている。為政者たちは、今こそ我々の命を守る義務を果たすべきだろう。
それが出来ないのならば、皇帝などいらない。
「神がお守り下さいます!」
誰かが大声で叫んだ。
それを聞いた人々は、はっとなった。
「そうだそうだ!」「神が助けてくれる」「浄火神に祈ろう! みんなで助けを乞おう」
人々の声が、うねりとなって広がっていく。
民の中には浄火神の信徒も多くいた。ここ最近、急速に勢力を拡大しているのだから当然だ。
それどころか、深緋色のローブを着た神官たちの姿もあった。神官たちは満足げに、民の様子を見つめている。
彼らの帝都におけるリーダーであるエルデンは、勝ち誇った様子で皇帝を見上げた。
これほどの影響力を持った今、帝国は浄火教を公認せざるを得ないだろう。
「世界を救うのは、我ら浄火神の僕です。ともに祈りましょう。新たな世界への扉が、今こそ開かれる!」
レムルスはこれを聞いて、口元に笑みを浮かべた。
「そうだ。その考えは正しい」
皇帝の言葉を聞き、エルデンは目をぎょろりと見開き、にんまりと笑った。
「しかし、祈る神を間違えてはいけない。浄火神とは世界を滅ぼす神、つまり滅びの魔神そのものではないのか?」
エルデンの顔から笑みが消えた。
「余は浄火神の教えについて、幾らか学んだ。彼らは、今ある世界は次第に悪くなっていくものだと説く。ゆえに、悪しきものとなりはてた世界を壊し、新しく清浄な世界へ人々を導く必要があるのだと。破壊は避けられるものではなく、歓迎すべきもので、救いはその先の世界へと人々を送り届けることにあるのだと」
浄火教徒たちは頷いた。その通りだ。
エルデンだけは、用心深く目を細めている。
「だが魔神が引き起こす滅びに、”その先”などないのだ!」
レムルスは、大きな腕の動きでマントを跳ね上げた。
「余はとある賢者から、滅びの魔神――厄災というビヨンドについて教わった。それはこの世界の全てを消滅させる存在、いや言うなれば反存在というべきもの。再生はない。清浄な世界もない。破壊のあとに残るものは虚無のみである! 浄火神に祈ってはいけない。我らが魔神に勝てるとすれば、忘れられたただ一柱の神に祈りを捧げること――、その神に、厄災をこの世界にもたらした扉を、もう一度開かせることだけなのだ」
民衆たちは絶句した。
聞いたこともない単語に、知らない神。
今まで生きてきた世界と違いすぎて、思考が追いつかないのだ。
「騙されている!」
エルデンが大きな声を出した。いつも広場で説法をしていた彼は、はっきりと遠くまで声を届ける技術に長けていた。
「皇帝陛下は騙されておられるのです! 彼はまだ幼い。その彼を騙し、嘘で取り入った者がいる!
滅びの魔神は、千年前に英雄たちの手で倒された。これは誰もが知っている事実でしょう? どんな歴史書にも、そう刻まれているではありませんか。いま起きている全ては、魔神とは関係ない。よりよき世界に向けた浄火神の準備に他ならないのです。
忘れられた神などと……、これは我々の浄火神に対する信仰を試そうとする悪魔のささやきだ。耳を傾けてはいけない! 心を強く持ちなさい。強く信じれば、浄火神は必ずお応え下さいます!」
浄火教のリーダーは不敬にも皇帝を指差した。身体は民に向け、その言葉も民に向けられたもの。
周りを囲む浄火教徒たちも、そうだ、その通りと賛同した。
民衆はますます戸惑う。
どちらの言葉を信じれば良いのか、わからない。
「嘘ではない! 余は、……余も見たのだ。ビヨンドという異界の魔物を! 余は騙されてなどおらぬ。余の民たちよ、愛する者たちよ。余からの初めての、そしてもしかしたら最後になるかも知れぬ願いを、どうか聞いてくれぬか? 心を合わせて扉神に、祈りを――」
「ああ、待ってくれ」
エルデンが額を左手で覆い、空を仰いだ。
それから彼は、芝居がかった仕草で目を開き、腕を広げる。
「おお、思い出したぞ、扉神! それはスティグマータの神ではないか!」
民衆は知った単語にざわざわと反応した。
「スティグマータ……?」「スティグマータだって?」「なんでここで、穢れた奴らの名が……」
「なるほど、畏れ多くも皇帝陛下を騙しているのは、スティグマータとみうける。彼らこそが千年前、世界を破壊した元凶ではないか! 扉神を喚び出せばどうなるか……。そう、おそらく、新たな滅びの魔神をこの世界に呼び寄せるつもりだろう!」
「そんな、馬鹿な……!」
レムルスは思わず、素の口調に戻って叫んだ。
「僕がそんなこと、するわけがない。する理由がないじゃないか! みんなを守りたいのに! 誰も死なせたくないだけなのに……!」
「それは真実なのでしょう。だから申し上げた! 陛下は騙されているだけなのだと」
「違う! 僕は、余は……」




