秘密の共有
「僕たちに出来ることと言えば、とにかく数を減らすことだよね。ワイバーン隊の報告によれば、異形の魔物の分布にはまだばらつきが見られるようだけれど」
「そうね。まずは旧都との連絡を復活させましょう。エルフの方々とも連携できれば良いのですけれど。異形の出現に、キリはあるのかしら」
「わからない。けれど、街道が分断されたまま長く掛かれば、食糧不足が起こってしまう。小麦の収穫が終わったところだったのが不幸中の幸いだけれど」
「困りましたわ。こういうときこそ、ラザロの見解を聞いてみたかったですのに。彼はミスドラの学府で長く修練を積んだ魔術師でしたでしょう?」
「彼は彼で、今も湿地帯の死者を抑えてくれているはずだから……」
ガサッと植え込みの葉が揺れる音が聞こえて、レムルスとユリアは黙った。
「クィッド?」
護衛の名を呼びつつ振り返ったが、現れたのはふわふわしたピンク色の頭だ。白い寝間着は薄くて、彼女の身体のラインが透けて見える。
レムルスは目を丸くした。
「エローラ姫……」
「どうぞエローラとだけお呼び下さいませ、陛下。私たちは、もうすぐ夫婦になるのですから」
エローラは優しげに微笑み、東屋に掛かる小さなアーチ橋を渡った。白い円形のドームを六本の石柱が支えている。内部のテーブルに着いているのは、皇帝レムルスただ独り。
エローラは三段の低い階段を上り、屋根の下で不思議そうに首を巡らせた。会話相手を探しているのだと、レムルスにはわかった。
「ここにはぼ……、余だけだ」
その言葉に、エローラの視線が戻ってくる。レムルスはテーブルに視線を落とし、横顔を見せていた。
「お側に行ってもよろしいでしょうか?」
「……。よい」
レムルスは素っ気なく言ったあと、小さなため息をついた。
パレードの時からずっと、彼女とはろくに会話が出来ていない。食事の時に顔を見るものの、それ以外は次から次に起きる問題に対処していて、暇がなかった。
(違うな)レムルスは思う。(忙しさを言い訳にして、彼女から目をそらしていたんだ)
家族とも上手く行かない自分が、赤の他人と家族になれる訳がない。
そんな不安から、無意識に彼女を避けた。幸い、言い訳は山ほどあったから。
ユリアは黙って様子を伺っている。
衣擦れの音がして、熟れた果物のような甘い香りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。物思いから冷めると、エローラがすぐ隣に座っている。予想以上に距離が近くて、レムルスは思わずのけぞった。
「えっ……と?」
寒冷なフロスティアではこれが普通の距離感なのだろうか。レムルスはどぎまぎする。エローラは間近で、春の女神のような笑顔を浮かべていた。頬が上気しており、目元が潤んでいる。レムルスを見つめる瞳は、好奇心でキラキラと輝いていた。
まるで妖精のようだ、とレムルスは思う。レムルスは妖精を見たことがないが、本に出てくる妖精を、そのまま大きくしたような。
(それとも妖精女王はこれくらい大きいのかな?)
そう。彼女は大柄なので、隣に座られると自分が小人になった気がする。けれど、同時に安心感があった。
理由はすぐに思い至った。この身長差は、クィッドで慣れているからだ。
「陛下におかれましては、いつもこのように夜更かしさんなのですか?」
銀の鈴が転がるような可憐な声だ。レムルスは首を振る。
「いや。考えることが多くて、眠れなかったのだ。そなたこそ、どうした?」
「私は、……夢見が悪かったのです。怖くなってしまいまして」
彼女はレムルスにぴったりと肩を寄せてくる。彼はぎこちなく頷いた。
彼女が胸の前で両手を握り合わせ、何度も上下を入れ替えている様が目に入る。落ち着きがない。馬車での時と同じだ。
「やはり、余になにか言いたいことがあるのではないか?」
レムルスは覚悟を決めて問うた。
エローラは、握り合わせた両手に唇を近づけ、祈るような仕草をした。返答を待つレムルスの首が、段々傾いていく。
「畏れながら陛下。ご無礼を承知で、申し上げます。……あとでどのようなお叱りもお受けしますので」
「怖いな。なんだ?」
「その、……陛下の御髪を、撫でてもよろしゅうございますか?」
「……え」
「撫でても、よろしゅうございますか?」
エローラは腰を捻り、レムルスの方を向いて首を傾げた。両手が握り合わされたままなので、懇願しているように見える。
「ああ、……うん?」
よくわからぬままに、レムルスは頷いた。するとエローラの表情がぱあっと明るくなり、彼女はレムルスをぎゅっと抱きしめた。
豊かな胸に、顔が埋まる。レムルスが混乱して瞬いている間に、エローラは彼の頭を撫でた。
「何て可愛らしい方……!」
やや掠れた興奮気味の声が聞こえる。レムルスはまだ混乱中だ。エローラは喉の奥から、仔猫を見た貴婦人が出すような高い音を響かせつつ、さらさらとしたレムルスの髪を撫で続けている。
最初は戸惑ったレムルスだが、次第に目蓋がとろんと落ちて来た。
遙か昔――。
母がまだ母だった頃、こうして頭を撫でてくれたことを思い出す。すっかり忘れていたのに。
(気持ち、……いいな……)
ずっとこうしていて貰いたい、と彼が思い始めたとき、撫では止んだ。エローラがそっと身を離す。
レムルスは蕩けた瞳で、彼女を見上げた。エローラは上気した頬のまま、うっとりと吐息した。
「ありがとうございます、陛下。エローラはこれで、しばらく生きていけそうです」
「生き……っ!? そなたはなにか、病が?」
レムルスの頭が、驚きでしゃっきりする。エローラは微笑んで首を振った。
「私の秘密をお教えしますね、陛下。――実は私、可愛いものがとてもとても好きなのです! たまらないのです。がまんできないのです。可愛いものを見ると、ぎゅっとして撫でて、吸いたくなってしまいます」
「吸うって……」
レムルスは複雑な気持ちだが、レムルスの中のユリアは大喜びだ。
「まあっ、わたくしを可愛いと思って下さるの? とても嬉しいですわ」
「あっ、これは」
ついユリアが飛び出してしまった。
慌てて口を塞ぐが、もう遅い。エローラはきょとんとしてレムルスを見ている。
(もう駄目だ……。頭のおかしい奴だと思われた。まぁ、否定は出来ないからな)
暗澹たる気持ちで、彼女から目をそらす。
頬に突き刺さる視線が痛い。
だがその認識を裏切るように、頭の上に彼女の手が載った。優しく撫でられる。
「ええ。とても可愛らしい。陛下の中にはどなたかもう一人、いらっしゃるのね」
エローラの声音には、必死で興奮を抑えようとしている者特有の震えが混じっていた。
レムルスは彼女と反対側に瞳を動かしつつ、頷く。
「わたくしはユリア。レムルスの姉ですのよ、お姉様。あら? あなたは弟のお嫁さんですから、わたくしのほうがお姉様になるのかしら」
ユリアが引き継いで喋った。瞳が、エローラの方を向いてしまう。ユリアは、人と話すときにはきちんと瞳を見て話したいタイプだ。
「でもあなたの方がお姉様という感じですから、お姉様とお呼びしてもよろしくて? エローラ」
エローラは瞬いた。瞳が潤んでいるようで、東屋の魔法灯を反射してキラキラと輝いた。
「もちろんです。私からもユリアとお呼びしていいかしら?」
「いいわ」
ユリアは少しだけつんとして――それでも口調は喜びに弾ませて、言った。懐くようにエローラに両腕を回す。
「わたくし、頭を撫でられるのが大好きですの、お姉様。長いこと、わたくしを撫でてくれる方はおりませんでしたから。もっと撫でて下さらない?」
「それはもう、いくらでも」
エローラは胸をきゅんと疼かせて、夫となる人の頭を優しく撫で続けた。
ユリアは、どうしてレムルスの中に自分が生まれたのかをエローラに話した。
エローラは時折涙を浮かべながら聞き、最後に一人分の二人を抱きしめた。
「もう大丈夫ですわ、陛下。これからは私が、お二人がずっと欲しかったものを差し上げます。陛下の御心を、命のある限りお支えいたしますわ」
レムルスはそう聞いても、にわかには信じられない。そう出来るには、人の良くない心を見過ぎてしまった。
返事をしなくても、エローラに気にした様子はない。彼女の手つきはひたすら優しかった。
(ああ、この人は――、温かい。それだけは確かだ)
レムルスの心に、生まれて初めての感情が芽生えようとしていた。




