足りないもの
帝都には人々の恐怖が渦巻いていた。
婚姻を祝賀する祭りの期間中だったが、もはや明るい雰囲気はまるでない。街路の飾りはそのままだが、屋台は片付けられ、兵士たちが足早に行き交っていた。
初日には南門の脇にある通用門を通って、避難民がやってきた。彼らは口々に、突如として平原に現れた異形たちの恐怖を語った。でも今日は、その避難民の姿すらもない。
民衆は、市民も奴隷も、ほとんどの者が家に閉じこもった。なにしろいつ魔物の襲撃があるかわからないのだ。
例外は浄火教徒だ。日に日にその数が膨れあがっている。彼らはおびえる民衆に向けて、街路から呼びかけた。
間もなく、世界の浄化が始まる。
浄火神を崇める者だけが、世界の破壊を生き延び、生まれ変わった世界で幸せに暮らせる。
さあ、共に祈りを捧げよう!
藁にもすがる思いでいた民衆は、我先にと浄火神に帰依した。
世界を滅ぼす浄火神――つまり滅びの魔神そのものに。
◇
シャイードとアルマが帝都に戻ってきたのは、パレードの二日後の夜だ。
その二時間ほど前。
妖精の道を南の森に開き、預けていた馬で街道を走るつもりだったが、馬どころか村人に身をやつした兵士さえもいなくなっていた。
原因はすぐに判明する。アルマが周囲に無数のビヨンドを感知したからだ。
「俺たちが雪山に引きこもっている間に、相当ヤバイ事態になってんな!?」
「一体ずつの強さはさほどでもない。どうする、シャイード」
「構っていられねえ。以前と同じだ。親を叩く!」
「だがその親を叩く方法が問題なのではないのか」
シャイードはアルマを見上げ、やや半眼気味に、勝ち誇った笑みを浮かべる。
アルマは無表情で頷いた。
「汝に任せよう」
その後、アルマは本の姿に戻り、シャイードは人の姿で背中に竜の翼を生やし、無人の平原を飛んだ。帝都の門は閉ざされており、城壁には見張りの兵がいてやっかいだったが、フォスに気を逸らしてもらい、手薄な場所から城壁を乗り越えた。
アルマを小脇に抱えたまま、ほとんど無人の街路を進む。
たまに兵に行き会う時は物陰に潜み、シャイードは旧市街を目指した。やがて、目的の場所が見えてくる。白亜の神殿めいた円柱が正面に立ち並ぶ、ひときわ目立つ建造物。
――劇場だ。
裏口に回り、周囲に人がいないのを確認してから、道具を取り出して鍵を開けた。
内部に忍び込み、再び施錠しておく。
案の定、内部にも人の気配はない。アルマが人の姿に変身した。
「む? ここは、劇場の建物か」
「ああ」
シャイードはフォスの光に照らされる通路を通り、幾つかの扉を通って劇場内へと向かう。
そして舞台に立った。
「アルマ。幻夢界への扉を開いてくれ」
アルマは「わかった」と頷き、アラーニェの蜘蛛糸で施した封印を解除する。
シャイードは軽い目眩を抑え込んだ。背中から翼を生やし、アルマを抱えて世界膜の亀裂に飛び込む。
幻夢界の浅い場所には、人々の夢が泡となって浮かんでいる。
虹色に輝く浮島は、この世界にも出現していた。この世界での浮島は、他の夢と同じように泡に包まれている。
だがシャイードの目的地はそこではない。彼は眼下に目を向けた。
遙か下に、暗い色に泡立つ海がある。以前張り巡らされていた蜘蛛の巣はなくなり、シャイードたちのいる場所と集合的無意識の海の間には無数の泡が浮かぶのみだ。
抱えていたアルマが、シャイードから離れた。
「おっこ、……ちない?」
「ここでの我は”自由に飛べる”」
シャイードは片顔で笑った。「そうだったな」
「まさかとは思うが、シャイード。深層の海に飛び込む気か?」
空を漂うアルマが問う。彼はゆっくりと横移動しており、髪が流れていた。
シャイードは頷く。
「自我を失うって言うんだろ。危険は承知の上だ」
「何をするつもりだ」
シャイードは目を閉じた。そのまま、すうと息を吸い込み、深々と吐き出す。
そしてアルマを真っ直ぐに見つめた。
「お前を、神にする」
アルマの目蓋が見開かれる。シャイードはニヤリと笑った。
◇
「一つ、確かめたいことがある」
雪山でそう言ったあと、シャイードとアルマは一度、イ・ブラセルへ向かった。
既に島は夜だったが、妖精樹には光精霊が集まっており、樹下は明るい。
スティグマータたちはそこに、輪になって座っていた。みな一様に、頭をうなだれている。表情には疲れと諦めが滲んでいた。
朝は隠れ潜んでいた妖精たちも、スティグマータが危険な存在ではないと理解したのか、ちらほらと彼らの中に混じっている。普段は明るい妖精たちまで、元気がなさそうだ。
樹にもたれかかって目を閉じていたトウが、シャイードが近づくと身を起こした。
シャイードは彼女に気づくと、目を見開いて立ち止まる。それから足早に近づいた。
「イレモ……、シア! お前、生きてたのか!?」
あり得ないと思いつつも、シャイードはトウの姿を見て希望を口にした。
トウは首を振る。その頃にはシャイードも、距離を縮めたせいでトウがシアでないことに気づいていた。
雰囲気はとても似ている。髪や瞳の色も同じだ。だが、シアにあった頬の紋様がトウにはない。もっと近づけば、瞳の中にあることがわかっただろうが、そこまでは見えなかった。
『私はトウ。シアの、姉です』
口を閉じたまま、扉神の巫女は思念を送ってきた。
「姉……。そうだったのか」
トウはシャイードの後ろに目を向けた。アルマが背後から、ゆっくりと歩いてくる。長身の魔導書は、相棒の隣で止まった。トウの視線がシャイードに戻る。
『あの時の黒竜ね、あなた。怪我をしているの?』
「え? あぁ。大したことねえけど」
戦いの間と直後は、身体を駆け巡る興奮が痛みを軽減していた。時間が経つにつれ、それは鈍い痛みと発熱として襲ってきたが、シャイードは何でもない風を装っていた。
身体中に噛み傷、裂傷、打撲痕、骨折があるのだが、気力で保たせている。倒れている暇はない。
しかし、トウには無理に抑え込んだ苦痛の気配が読み取れたようだ。
『……。シアが凄く心配している』
一度梢を見上げてからの少女の言葉に、シャイードは表情を和らげた。
「なんか喰ってちょっと眠れば、すぐに治るよ。アルマ。ローシを探して、飯を持ってきてくれって言ってくれねえか?」
「了解した」
アルマは頷いて踵を返した。トウが彼の後ろ姿をじっと目で追う。
「それよりトウ、だっけ? 扉神が厄災を封じるために何が足りないのか教えてくれ」
シャイードは草地の上にあぐらを掻く。折れた肋骨が衝撃でズキリと痛んだが、立っているより幾分楽だ。
『信仰の力。扉神は、長らく忘れられた――というより、禁じられた神だったから』
シャイードは特に驚いた様子もなく、頷いた。質問はほとんど確認のようなものだった。
『けれども、へん。人の心には、ここではないどこかに行ってみたい、という密かな願いがあるもの。まだ見ぬ地平、夜明けの先、黄昏の向こう側。淡い、あこがれ。……そういった気持ちが、自然に溜まっていると思っていた』
「アンタにも、枯渇は想定外だったのか」
トウが頷いた。頬に片手をあて、首を傾げる。
『別の何かに奪われている、のかも』
「……俺が何とかしてそれを送ることが出来れば、扉神も力を振るうことが出来ると思うか?」
『黒竜のあなたが? 古い世界の生き物は、神を信じる心を持たないと言うけれど』
トウは眉根を寄せた。疑いのまなざしをシャイードに向けた後、彼女は顎を持ち上げた。
『だってそうでしょ、シア。……それは、そうだけれど……』
妖精樹と会話し、トウは小さくため息をついた。顎を引いてシャイードを見つめる。
『あなたを、夢に見た。たぶん、あれはあなただったと思うのだけれど』
「何の話だ?」
『未来。いつもあやふやで、不確定なものだけれど、今はほとんどが真っ暗なの。その暗闇と現在の間に、あなたの影がある……。あなたも黒いから、凄くわかりにくかった』
シャイードは巫女が何を言おうとしているのか良くわからず、眉根を寄せた。
『もちろん、祈りが満ちれば神は力を奮える。わたしが、……わたしたちが、願いを形にする』
シャイードの口元が、満足げに弧を描いた。
アルマとローシが、妖精界からご馳走を運んできた。




