再会の姉妹
休んでいた者をたたき起こし、トウは最低限の荷物――着るものと毛布、持ち出せるだけの食料と道具類――を持って外に出てきた。
津波のような雪が横から飛んでくる。スティグマータたちは反射的に頭を庇い、被った雪を払った。幸い、埋まるほどではない。
見れば二頭のドラゴンが組み合って、山の斜面を転がっていた。互いに相手の上になろうとして、翼を打ち、身体を捻っている。横からの雪は、彼らの翼が引き起こす風のせいだ。
噛みつき、引っ掻き、尻尾で打ち合う。炎は意味がないと悟ったのか、完全に肉弾戦だ。
彼らが飛び上がり、山に身体を打ちつけるたび、地面が震えた。あちこちで雪崩が発生している。
物事にあまり動じないスティグマータたちも、その光景に動けなくなった。
雪山をならしながら、赤と黒、二種類のドラゴンは相手を蹴りつけている。離れては組み合い、また離れた。飛びかかり、転がって躱し、背中を丸めて飛び起きて、噛みつき掛かる。規模は大きいが、そのしなやかな動きは猫の喧嘩のようだ。
トウは目蓋を大きく開く。
黒いドラゴンに、懐かしさを感じた。不思議だ。ドラゴンを見るのは初めてのはずなのだが。
(あ……。黒い、大きな影……)
彼女の心の中で、淡い予感だったものが形をとる。あれはドラゴンだ。
「さあ、早く!」
エルベロが妖精の道を開き、手招いた。
切り抜かれた空間の向こう側は、雪のない穏やかな草原だ。門の一番傍にいたスティグマータがトウを見る。トウは頷いた。
放置すればすぐに閉じかかる道を、エルベロは魔法を維持することで保っている。スティグマータたちは列をなして次々に潜った。
トウは仲間たちから、上空の浮島に視線を移す。虹色の光を纏った浮島は、いつもよりも低い。
(動いている……?)
最初は目の錯覚かと思ったが、浮島は東に向かって動いているように思えた。圧迫感は続いている。
「そなたも!」
エルベロが声を張った。トウはそちらに向き直り、走る。残る十人ほどの仲間の最後に並んだ。最後に取り残しがいないか振り返る。
長髪の魔術師が、こちらに背を向けてまだドラゴンを見つめていた。エルベロが口の端に手を立てる。
「魔導書!」
(まどうしょ?)
道に片足をつっこみながら、トウは片眉を上げた。魔術師が振り返る。
「我の道はそっちではない」
「……。では王を頼む」
後ろを見ながら進むトウにエルベロが続き、虹色の翅の向こうで門は急速に閉じていった。
門の先は空気が暖かい。それに嗅ぎ慣れない匂いがする。
トウは知らなかったが、それは潮の匂いだ。先にやってきていた仲間たちが、草原に立って周囲を見回している。
なだらかに起伏した草地の中央に、一本だけ木が立っていた。
右手の方向には崩れた塔の残骸が見える。左手は下り坂になっており、ずっと向こうに海が見えた。仲間以外に人影はないが、何か様子を伺うような気配が、そこかしこにあった。
隣に並んだエルベロが、ぷっくりとした指で若木を示した。その仕草で、トウはその木こそが妖精樹なのだと気づく。意外だ。天をつくような大樹をイメージしていたから。
ところがトウは木に意識を向けた途端、何かを感じ取った。目蓋を見開く。
仲間たちが見守る中、ふらふらと惹きつけられるように進み、幹に手をついた。
掌から、思念が流れ込んでくる。
『良かった。やっと、会えた。……おねえちゃん』
『まさか……! 本当にあなたなの、シア』
『うん、わたし』
『最後に見たあなたは、人間だったのに! どうしてこんな……』
『それより、おねえちゃん。すぐに扉神、喚ばないと』
トウは息を飲み込む。苦しげな表情を浮かべ、唇を噛んだ。
『駄目なの。もう何週間も頑張ってみたのだけれど。扉神の存在には触れられる。けれど、現れてくれない』
『次は、わたしがいるよ。足りないパーツ。でしょ?』
『……でも』
『だいじょぶ。いまのわたし、人の時より、よく視える。感じる。一緒にシャイード、助けよ?』
『シャイード?』
トウは瞬いた。返事はなかったが、掌からぽわぽわした感情が流れ込んできた。
◇
シャイードと争っていたイヴァリスは、焦りを感じていた。始めは互角だった戦いが、今やじわじわと追い込まれてきている。
(なぜだ? 兄さんの動きが、一週間前とは全然違う!)
イヴァリスの方が相変わらず、身体が一回り大きく、力も強い。だが兄竜は、小柄な分素早かった。その上時折、重力を無視したような動きをする。
絶妙なタイミングで閃光を放ってくる光精霊も邪魔だ。小さすぎて落とすことも出来ない。
赤竜は苛立った。
イヴァリスの攻撃は当たれば強いが、最初の頃ほどヒットしなくなってきている。逆にシャイードの攻撃は、ちまちまとだが確実に打撃を積み重ねていた。
一つ一つは小さなダメージが、徐々にイヴァリスの動きを遅延させる。さらに攻撃は当たらなくなり、ダメージは受け続けるようになってきた。気づけば四肢が、上手く動かない。
(勝てない)
「うぉおおおお!!!」
イヴァリスは腹の底から怒りを放出した。信じられない。彼は自分より強い生き物に、会ったことがない。
怒りは彼の力を強化した。だが、いかな強打であろうと、当たらなければ意味がない。
シャイードは、イヴァリスが怒るほどに冷静になる。
弟竜の猛攻を受け流し、或いは躱し、すれ違い様に小さな打撃を入れていく。痛い。身体中が重い。こわばる。
そしてついに、イヴァリスが雪上に膝を屈するときが来た。
(もう、……疲れた)
一度膝を屈してしまうと、もはや身体を支える力さえ残っていないことに気づく。イヴァリスは雪の上に伏した。ゼイゼイと荒い息をつく。熱い呼気を受けて、顔の傍の雪がみるみる溶けた。
間合いの外に降り立ったシャイードも、勿論無傷ではない。全身に打ち身や怪我を負っているし、何本かは骨を折った確信がある。
だが彼はまだ立っていた。雪山に伏せたイヴァリスの行為が、罠である可能性を疑って警戒している。
(雪は冷たい)
身体の下の雪が溶けて、しゅうしゅうと白い蒸気となって上る。代わりに、身体の中に冷気が染みこんできた。
肺の傍にある炎袋が、急速に冷やされる。
イヴァリスは落ちそうになる目蓋を、必死で開いた。
(そうか。私は赤竜。黒竜である兄さんより、冷気には……)
時間が経てば立つほど、不利になることは最初から定められていたのだ。兄はそれを理解した上で、わざと勝負に時間を掛けた。
打撃よりも、攻撃を見極め、回避することに重点を置く。攻撃するのは出来るときだけ。それも深追いはしない。
(兄さんは、賢い)
イヴァリスは口元に笑みを浮かべた。なぜだろう。誇らしい。
「これで……、わかったか! 俺は、俺の方が、お前の、兄だ!!」
右手の親指を立てて胸を示し、息も絶え絶えに黒竜は言った。思った以上にふらふらだ。イヴァリスは雪の上で唇を歪めた。
「知っている」
喉の奥から、グルルル、という音が零れる。無念だ。
――無念だが、これでいい。
人間の手で滅ぼされたのではない。
他ならぬ、兄の手で滅ぼされるのだ。
この手で人間たちに復讐を果たせなかったのはとても悔しいが、あのボロボロの兄に、厄災をどうにか出来るとも思えない。
空には浮島。まだ消えていない。もう消えないのかも知れない。
試合には負けたが、勝負には勝った。
敵の敗北が演技ではないと悟った黒竜は、翼を羽ばたかせて距離を詰めた。弟のすぐ傍に降り立つ。
赤と金。二つの瞳が空中でぶつかった。
シャイードは、顔のすぐ傍を飛んでいたフォスに何かを命じた。光精霊はどこかへと飛んでいく。
それから彼は、力なく横たわる赤竜の身体の下に両手を差し入れ、雪の上を転がした。イヴァリスは無抵抗に仰向けられ、喉元――弱点である逆鱗――を晒した。
イヴァリスは目を閉じた。
(ひと思いに、かみ殺してくれるのか)
随分と優しいことだ、と彼は思った。




