幸運を手に
その頃、旧市街にあるエステモント家の教育施設に、反乱奴隷の一団が入り込んでいた。八人ほどの武装した男たちは、制止しようとした教師を殴り倒し、教室へと踏み込んだ。彼らを見て、生徒たちはおびえた。
トルドは入口を確認する。廊下に繋がる唯一の出入り口の前に、男たちが並んでしまった。
強行突破は難しそうだ。
彼らの代表として教壇に立ったのは、四十がらみの髭面の男だ。まだ囚われたままの哀れな同胞を優しく見回す。
「さあ、お前たちも俺たちと一緒に行こう! もう奴隷の生活は終わりだ。これからは自由に、好きなように、自分の人生を生きていいんだぞ」
黒い髭に顔を縁取られた男は、純粋な瞳で握り拳を作る。
彼は朗報を伝えに来たつもりだった。抑圧された若者たちは、彼の言葉に喝采し、大喜びでついてきてくれる。……はずだった。
しかし予想に反して、年若い奴隷たちの反応は鈍い。ぼんやりしているように見えた。
意図が通じなかったのだろうか。
教壇の男は、上向けた両手を勢いよく広げた。
「おいおい、どうしたんだ? かわいそうに、虐げられて立ち上がる気力もないのか? いま町で、俺たちダスディールの民が立ち上がっている。離散した国の元騎士たちが、民を救いに来てくれたんだ! 他国の奴隷たちも、自由のために戦っているんだぞ」
「誰と……?」
教壇の目の前にいた少女が、恐怖で身を縮こまらせつつ、上目遣いに尋ねる。蚊の鳴くような声だ。髭男は片耳に手を添えて、上体を傾けた。
「ああん? なんだい、娘さん」
「あのっ、……誰と戦っている、んです、か?」
「もちろん、帝国とだよ!」
エステモントの奴隷たちは顔を見合わせた。端の方に座っていた痩せぎすの青年が手を挙げる。
髭男は太い指で彼を指した。青年が立ち上がった。
「勝てるわけがないと思います」
「なんだって? そんなの、やってみなくちゃわからんだろう」
この言葉に、生徒たちは再び顔を見合わせる。
「何をもって勝利とするのですか?」
と、これは別の生徒だ。
「王宮の制圧ですか? 皇帝の殺害ですか?」
髭面の男は面くらい、一瞬口ごもる。だがすぐに体勢を立て直して胸を張った。
「そういうのはリーダーたちがやってくれる。俺たちは自分の主をやっつけて、自由を勝ち取ってきたんだ。さあ、お前たちも一緒に連れて行ってやるぞ!」
「僕たちは自由ということですか?」
「そうだよ!」
やっとわかってくれたか、と髭男は大きく頷いた。笑顔を浮かべると、とても人が良さそうだ。
悪い人ではないのだろう、とトルドは思う。鍛え上げられた筋肉は、彼が肉体労働者であることを示していた。
きっと長い間、苦役に耐えてきたのだろう。
なにかのバランスが崩れて、彼らは蜂起した。おそらく、刹那的に。トルドは以前の同僚であった海賊たちを連想した。
エステモント家の奴隷たちはどうするのだろう、と彼は教室内を見遣る。
俯いている者や、トルドのように周囲を見回している者、踏み込んできた男たちに不安の目を向けている者、さまざまだ。
トルドは帝国に来て日が浅い。反乱の規模もわからない。けれど男たちの武装を見て、先ほどクラスメイトが口にした指摘は間違っていないことを確信する。
今日はパレードが行われているから、おそらく警備の兵士はそちらに集まっているだろう。その隙を狙って、奴隷たちの反乱は上手く行っているように見えている。
上手く行っているように見えている間は、他の奴隷たちも便乗して、行動を共にするかも知れない。
けれど、帝国軍がひとたび反乱鎮圧に動き出せば、農具しか武器のない彼らに勝ち目はない。
トルドは奴隷身分ではないけれど、奴隷の彼らと行動を共にしていたら、とばっちりで処罰されるかも知れない。まして、奴隷身分の生徒たちが彼らに賛同してしまったら……。
何か言うべきか。彼らにアドバイスした方が良いだろうかと考えているうちに、教壇の男は苛立ってきたようだ。太い腕を組み、眉に皺を寄せている。
トルドの隣にいた砂色の髪の青年が立ち上がった。さきほど、窓の傍で会話を交わしたやや年かさの奴隷だ。
髭面の男が、「おっ」と言って心持ち、口元をほころばせる。
「決断したか?」
「自由を尊重して下さると聞いたので、はい」
トルドは彼の横顔を必死で見上げた。駄目だ、止めた方が良い、と目配せする。青年はトルドにちらとだけ視線をくれて、あとは男たちの方をまっすぐ見つめた。
「よし! いいぞ。他には、」
「私は、ここに残って勉強を続けたく思います」
髭面の視線が他の生徒に移ったのもお構いなしに、立ち上がった青年はきっぱりと言った。男の視線が、驚いたように彼に戻ってくる。
「なんだって?」
一段低くなった声に、生徒たちは縮み上がった。けれど、言われた主はしっかりと顔を上げたまま微動だにしない。
「まずは皆さん、私たちのことを気遣って下さってありがとうございます。私も、自らが奴隷の身分であることについて、思うところはあります。とても沢山、あります。……ですが、今、あなたたちについて行ったとして、仮に自由にもなれたとして、私に何が出来るでしょう。あなたのように力が強いわけでもなく、他のどなたかのように技術を持っているわけでもない。さあ一人で生きて行けと投げ出されたところで、私には売るべきものが何もありません。例え身分が自由だとしても、出来ることが少ないという不自由からは抜け出せません」
彼は一息つき、教室を見回した。
「それはおそらく、この教室のほとんどの仲間たちについても同様でしょう。ですが私たちは今、大変な幸運を手にしてここにいます。それが”学びの機会”です。本来ならば、裕福な家に生まれない限り、……いえ、例え裕福な家に生まれても、女性であれば得られなかったかもしれない機会を、得ることが出来てます。これは自由よりも得がたい、天からの贈り物だと思うのです」
何人かの生徒が顔を上げ、頷いている。
青年は胸の前で、両手を組んだ。
「私たちを気遣って下さったことについては、本当にありがとう。重ねてお礼を申し上げます。ですが、自由を尊重して下さるのなら、私たちがここで、奴隷として学び続ける自由を、どうか許して欲しいのです。もちろん、この意見が全員の代表というわけではありません。――彼らと行きたい者がいれば、行けばいい。どんな立場であろうとも、人生の主は自分自身だから」
最後の言葉は、クラスメイトたちに向けられた言葉だ。
けれども彼の演説を聞いてもなお、男たちについていこうという者はいなかった。普段、いやいや学んでいた者たちでさえ、改めて自分の得た幸運について考え始めている。
反乱奴隷たちが何も言えずにいる間に、青年は着席した。
トルドは、彼が机の上でこわばった両手を開いたり閉じたりしているのを見た。本当は恐ろしかったのだろう。緊張したのだろう。
とてもそうは見えなかったが。
(学ぶことの出来る幸運、か……)
トルドは自分の掌を見つめた。
(思っているよりずっと凄いものを、俺は手にしているのかも知れねえ)
乱入してきた奴隷たちは、それ以上は何も言うことなく、静かに立ち去っていった。




