沈静
帝都の各地で奴隷たちが反乱を起こしていた。
しかし、全ての奴隷が賛同していたわけではない。奴隷の数が多い鍛冶工房街では、不満を持つ奴隷と、反乱によって立場が悪くなることを危惧した奴隷同士が争いになり、怪我人が出ていた。
パレードは停止した。だが民衆の大半は、この場を離れぬことを選んだ。家の様子は気がかりだが、戻る途中、どこで奴隷の集団に取り巻かれるかわからない。兵が沢山いるこの場所が一番安全だと考えた。
ヴァルキリー隊の兵士たちも、不安でパニックになりそうな民衆に、落ち着くようにと声を掛け続けている。今は秩序立っているが、いつまで保つかわからない。小さなきっかけで、恐怖は燎原の火のように燃え広がり、人を暴走させるものだ。
ファティマは周囲をぐるりと巡ったのち、エローラの馬車へと白馬を寄せた。
「姫。真に心苦しくありますが、式典の中断を具申いたします。安全なところに一時避難するのが最善と考えます」
「安全なところ?」
「ええ。この近くに、兵の屯所がございます。そこでしたら建物も堅牢ですし、」
言いかけたファティマに、エローラは片手を立てた。
「ですが、民衆はどうなりますか? みな、不安な様子です」
「もちろん、民も我々が責任を持って守ります。暴徒どもに後れをとる帝国兵ではございません」
「信じております。……けれども、アーテマ卿。私はこんな時だからこそ、パレードをきちんと行いたく思うのです。私たちが平然としていれば、民の心も落ち着くのではありませんか? 逆に、私だけがここから姿を消したら、民はますます不安を募らせることでしょう。ここにいては危険なのかも知れないと、疑心暗鬼に陥る可能性もあります」
正論だ。ふんわりとした雰囲気の王女から返った答えに、ファティマは瞳を揺らした。
「しかし……」
エローラは馬車に座ったまま身体を傾け、手綱を握るファティマの片手に両手を添えた。
ファティマははっとして、青緑の瞳を持ち上げる。
眉を困らせつつ、優しげに微笑むエローラの顔があった。
「お願い、ファティマ。どうか私のわがままを許して下さい。貴女が私を守るという、ご自身の使命に忠実であるのは理解しているつもりです。ですが、私は皇后となる者。民の心を安んじることこそが、私の使命なのです」
緊張で冷えた手に、手袋越しの熱が伝わってきた。家名ではなく名を呼ばれ、ファティマは一度目蓋を閉じた。その僅かな時間で決断を下すと、高貴な女性を見つめて頷く。
「わかりました。それが主君のお望みならば、身命を賭して実現いたすが臣下の務め」
彼女は手を持ち上げ、姫君の手袋越しに、忠誠の口づけを落とした。その後、自身の胸に片手を水平に添え、深々と一礼して踵を返す。
「隊列を整えよ!」
そして側近に預けていた旗を受け取り、自らは隊列の先頭に立った。練度の高いヴァルキリー隊は、一瞬の躊躇もなく即座に将の命に従う。
二人のやりとりを黙って見つめていたメリザンヌは、自然と頬を緩めていた。
前に向き直ったエローラが、ふと気づいて彼女を見る。
桃色の髪の王女は、唇にそっと指を立てた。
「それに、陛下をお待たせしては申し訳ありませんもの。男女の仲は、最初が肝心でしょう? ……美しいメリザンヌ嬢?」
メリザンヌは思い出したようにつけられた最後の呼称に、思わず笑った。
「ええ、ええ。まさしくそうですわ! でもそれは、男女の仲に限らず、女女の仲だってそうだと思いますの。ねえ、美しいだけではないエローラ姫様?」
魔女がウィンクをすると、エローラは白い頬を嬉しげに染めた。
◇
その頃、クルーセスは旧城壁上にいた。狭間胸壁には未だ弓兵が控えていたが、伝令兵姿を咎める者はいない。まして彼が下でファティマと話すのも、エローラを助けに崩れた門に飛び込んでいく姿も、皆は見ていた。ただ楽器を手にしていることについては、不思議に思っただろう。
クルーセスは胸壁に片足を載せ、新市街側を見下ろした。旧市街側よりも、こちらは混乱が深い。姫君の馬車が潜ると同時に、門が崩れたからだ。
悲鳴を上げる者、ショックでへたり込む者、どうなったのか見ようと道へ出てくる者と護衛兵が押し合いへし合いしていた。さらに、町の各所から上がった煙に気づいた者たちがざわめいている。
兵士はいるが、付近に指揮官がいなかったことで、収拾がつかなくなっている。あちこちから、ままならぬ民衆に対する怒号が聞こえていた。
民衆の中に、奴隷解放戦線の仲間が混じっているはずだった。彼らに意志を伝えたいが、軍服を着て帝国兵に混じっている今、クルーセスは目立たない。彼は楽器を構えた。
「さあ、本領発揮と行こうか。我が相棒、魔楽器リュスタンギア」
彼は弦を、決まった手順ではじいた。リュートが魔法の輝きに包まれる。
人々は突然響き渡った弦音に驚き、周囲を見回し、最後に胸壁上を指さした。
クルーセスは聴衆に笑顔を向ける。そして歌い始めた。
彼の歌声はリュスタンギアの力で、見渡す限りの人々の耳にしっかりと届く。
紡がれたのは、平穏の呪歌だ。人々の心に、落ち着きと安らぎをもたらしていく。
ゆったりとした曲調で、全体としては明るいが時折切ない。サビの部分には古代語で、他者への普遍の愛情が織り込まれている。
クルーセスは歌い、歌って、歌った。
恐怖と不安と興奮で混乱していた人々が、離れていてもはっきりと耳に聞こえる彼の歌に聴き入る。眉間の皺が消え失せ、民衆は温かいものに包まれ、守られている気持ちになった。同時にまた、子や伴侶、隣人、年長者、傍にいる者たちへの優しい気持ちが生まれる。
曲が終わると、人々は静かにその場に立ち尽くしていた。兵士たちも同様だったが、彼らは職務を思い出した。
先ほどとはうって変わって、思いやりに満ちた丁寧な態度で、民衆を安全な場所へと導いていく。民衆もまた、大人しく従った。
民衆に混じった奴隷解放戦線のメンバーは、歌の意図を汲んだ。完全にではなかったが、とにかく計画は中断せよということだと理解する。
彼らには城壁の向こうの様子がわからない。
ただ、計画の鍵を握るクルーセスが何らかの行動を起こし、その結果、歌で停戦を伝えてきたことはわかった。
「急ぎ仲間たちへ伝えよう」
彼らはそれぞれ頷きあう。彼らもまた、歌の影響を受けていた。闘争をもってしても、自らの悲願を達成するという勇ましい気持ちは、今はしぼんでしまっている。
呪歌の影響は永続的なものではなく、人の心はうつろうもの。その感情は、長続きはしない。けれども敬愛する主君への忠誠は本物だ。彼の意志には従う。
五人はそれぞれの方角へと散った。
クルーセスは、呆然とする弓兵たちをその場に残し、旧城壁の上を西回りに歩き始めた。歩きながら、再び平穏の呪歌を奏で、歌う。
相棒の力を持ってしても、広い帝都の隅々にまで効果を及ぼすことは出来ない。しかし、開けた城壁の上を移動しながら歌うことで、効率的に広範囲の沈静化を図る。町に潜伏して奴隷を扇動していた解放戦線の仲間も、状況が変わったことを悟って破壊活動を停止した。




