提言者の法則
(どうしたらいいと思う、ユリア)
(……)
(ユリア?)
(聞かないで下さいまし、レムルス。わたくし、いま、たいへん心を痛めておりますの。傷心状態ですの……)
(えっ?)
(あの素敵な吟遊詩人のとのがたが、まさか悪い人だったなんて。しかも、しかもよ、レムルス。あの方は、以前にも帝都で帝国を批判する歌を歌った方ではありません? その時は凄く派手な髪色をされていて、遠目にしか見なかったものですから、気づきませんでしたわ)
(う、そ、そうか。そういえば、そんなこともあったね)
(……。奴隷のかたがた、ですわね。そう……、そんなに沢山のかたたちが不満を持っているとは知りませんでしたわ。今まではさらに下の、スティグマータという存在がいたお陰で、我慢できていたのかも。そうですわね……、力で抑え込むことは可能でしょう、おそらく。けれども、それでは問題を先送りするだけだと思いますわ。枝葉を落とすだけでは駄目。根を掘り返さない限り、何度だって紛争の種が生じるでしょう)
(僕もそう思う。けれども、やはり急激に物事を変えるのは危険だ。僕たちは荷物を満載した船に乗って海原を走っているようなものだ。急激な方向転換をすれば、荷は崩れ、船はバランスを失って転覆する)
(そうね、まったくその通りですわ)
(方向転換をするのなら、ゆっくりと慎重にやらねばならない。彼にそれを理解して貰うにはどうしたら良いのだろう)
(……、でしたらレムルス、ここはいつものように、出来る方に助けを乞いましょう)
(えっ? 誰に?)
(それはもちろん……)
◇
(なんだ、この子は?)
レムルスとにらみ合っていたクルーセスは、皇帝の口元が音もなく動いていることに気づいた。良く見ればその表情も、僅かながら刻々と変化している。
まるで見えない誰かと会話しているようだ、と思う。
その口元が、ピタリと止まった。
僅かに顎を持ち上げた皇帝の瞳に、先ほどまではなかった光が灯っている。
(どうやら答えが出たようだ)
クルーセスは身構えた。
「余は、そなたの提案を受け入れよう」
「! 本当か!?」
クルーセスがつい腰を浮かすと、クィッドも鏡に映った姿のように立ち上がった。フォレウスが隣で彼の服の裾を引っ張り、クルーセスは座った。クィッドも座る。
「だがそのためには、条件がある」
「なんだい? 時間ならあげないよ」
「そうではない。時間はそなたが好きにするがよい」
「? どういう……、ことかな?」
「そなたに、帝国の議会に出席する義務を課す。担当官僚として、奴隷の解放業務をそなた自身が行うがよい。法案を考え、議会に提出して通せ。各部署と協議し、貴族や商人たちに根回しし、……まあとにかく、必要なことを全てやれ。ただし、帝国と帝国民に傷をつける形であってはならぬし、財産を不当に奪う形であってはならない。その上で奴隷主からの反対・反発・苦情・いやがらせがあればすべてそなたが対処せよ。そなたが悪者になるのだ」
「……なっ……!? なんだって!?」
クルーセスは驚愕し、声が裏返った。
「何を考えているんだ、僕は君の敵だよ?」
レムルスは首を傾げ、にんまりと笑った。頭の上で、重い王冠がずれるのを手で押さえる。
「別に余は、そなたの味方になってやるつもりはない。まあ敵とも思っていないがな。それに、そなたの半分ほどしか生きていない余に、平気で無理難題を押しつけてくるのだ。そなたならさぞかし華麗な手腕でやってみせるのだろう? 奴隷の解放とやらを。いいだろう。やってみるがよい。出来るものならな? 余はそなたのように、すぐに解決せよなどと意地悪をいう気はない。存分に時間を掛けてよいのだぞ? 十年でも二十年でも五十年でも」
「……馬鹿な……」
クルーセスは口元に片手を当てて、馬車の床を見つめた。
こんな答えは、全く想定していなかった。
(奴隷を解放していいだと? しかも僕自身に帝国の官僚になってそれを行えと……。つまり出来なければ全て僕の責任じゃないか!)
「ふっ……、ぶははははっ!!! やっぱりスゲエや、俺の皇帝様は!」
一連の流れを見守っていたフォレウスが、愕然とするクルーセスの顔を見てついに耐えきれずに大笑いした。足をばたばたとさせ、隣の背中をばんばんと叩いている。
クィッドはこめかみに青筋を浮かべて、右手を握りしめていた。
「どうなのだ? まさか、出来ぬとは言わぬだろうな? 全て余にやれと言ったことだぞ、クルトとやら」
「……」
クルーセスは顔から手を離し、ゆっくりと姿勢を戻した。
一度目蓋を瞑る。そして数秒ののち、開いた。
「クルーセス」
「うむ?」
「僕の本当の名前はクルーセス。クルーセス・フェティア・ツィエルト・ヴァン・ダスディールだ、皇帝陛下」
「ダスディール……?」
レムルスが半信半疑で口にするのを見て、クルーセスは重々しく頷く。
「正真正銘の」
レムルスは真顔になった。傾いていた王冠を頭の上に押し戻し、背もたれに深く身をあずける。
彼は亡国の名を持つ青年から、その隣に瞳を転じた。魔銃兵は驚いていない。
「なるほど」
レムルスは目蓋を閉じて一つ頷く。
しばしの沈黙を挟んだ後、レムルスは目を開いた。
「それならば、なおさら適任であろう。余の出した条件を守りつつ、好きにやれ。余は奴隷制の是非について、確信があるわけではない。現在の帝国が奴隷制を維持しているのも、有史以前より長きにわたって続いてきた制度には、一定の合理性があるはずとの仮定に基づくに過ぎない。まあ、いわゆる慣習というやつだ。それが間違っているというのなら、その信念を持つ者が証明すべきだ。ただしその方法は、武力でおしつけるものであってはならない。武力で押し通せばそれは、武力を持つ者が正しいという証明になっても、奴隷制が間違っている証明にはならぬ。余は時間をかけ、人々がよく話しあい知恵を絞れば、いずれ正しい結論にたどりつけるものと信じている。どちらになるかは、その結果でよい。余は従おう」
これを聞いたクルーセスは、静かに息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。長い長いひと呼吸だった。
隣に座っていたフォレウスは、青年の身体から力が抜けるのを見た。憑き物が落ちたかのようだ。
いやそれよりも、彼をがんじがらめにしていた”自由という名の鎖”が解けたといった方が適切だろうか。
「僕は結構、人たらしの自覚があったのだけれど。やれやれ。……君には負けたよ」
最後の部分は吐息混じりの呟きで、彼の手元に落ちて皇帝の耳には届かなかった。
クルーセスは表情を改めると、胸の前で手を組み、頭を垂れた。
「皇帝陛下に、我が忠誠を捧げます。以後は帝国のために、特に奴隷たちのために、粉骨砕身する所存です」
レムルスはこれを聞いて、年齢相応の無邪気さで微笑んだ。
「うん。任せたよ」
その直後、馬車が不自然に揺れた。地響きだ。
クィッドが身を捻り、皇帝を守るように両腕を広げる。フォレウスは窓の外に顔を出し、前方を見遣った。クルーセスは立ち上がっている。
「まずい! 始まってしまった」




