隠し通路
クルーセスは帝国の軍服姿で単身、地下を移動していた。リュートを布で包んで背負い、左手にシャッターつきのランタンを持っている。
帝国軍も馬鹿ではない。奴隷解放戦線による地下からの襲撃を警戒し、主だった下水口の地上部分には兵士を配置している。
地上の水路を行く舟も今日は数が少ないが、これにも警戒の目を向けた。ただし、どちらもメインストリートとその周辺だけだ。
帝都全体を警備するとなると、一カ所ずつが手薄になる。帝都は広く、散れば散るほど連携も悪くなる。帝都の守護を司るグラドノフ将軍は、守るべき場所に全力を注ぐ戦略をとった。
しかしクルーセスが目指した出口は、知られていない。秘密の脱出路だ。
以前、シャイードと共にスティグマータを帝都から逃がしたとき、彼は王族用の脱出路が存在することを口にしていた。そのルートを逆にたどった。
隠された細く長い階段を上り、天井が迫るとランタンのシャッターを閉じた。急に周囲が暗闇に閉ざされる。クルーセスは目が慣れるのを待ってから、突き当たった天井の石蓋を片手で押した。
(重い)
石蓋はがっちりと枠にはまっており、びくともしない。この上は王宮の地下に直接繋がっているはずだが、先の情報は一切わからない。
もしも脱出口の上に、重い物が載せられていたらアウトだ。
しかし彼は、その心配を余りしていなかった。王族がこの脱出経路を使うとすれば、かなり切羽詰まった状況の時だ。逃げてくるのが女、子どものみという可能性もある中、重い物で脱出路を塞いでしまう愚を犯すとも思えない。
ここに来るまで、散々隠し扉や分岐路を抜けてきた。道を知らぬ者が偶然ここに到達する可能性もまた、恐ろしく低い。
クルーセスは背に負った楽器を身体の前に回し、階段をさらに数段上った。背中を石蓋に押しつけ、腿と膝の力で押し上げる。
かなりの抵抗があった後に、不意に蓋が持ち上がった。枠と蓋の間から、パラパラと砂だか埃だかが落ちる。長いこと開かれていなかったせいで、固まっていたようだ。
彼は慎重に蓋を持ち上げ、床の上に片側を載せてずらしていった。隙間から光が入り込むこともない。この先も闇だ。
蓋を完全に開いたのち、一旦ランタンを取りに数段下がった。
そしてもう一度上ってくる。物音は最小限に済ませたつもりだが、念のため、息を殺して耳を澄ませた。
静かだ。
ランタンのシャッターを、僅かに持ち上げる。闇に慣れてきた目には、それでも充分な光源となった。
石造りの小部屋だ。空気は古い匂いがした。周囲に木箱が積まれているが、何が入っているかを見ている時間はない。
クルーセスは小部屋に出たのち、正面にある別の階段を上った。
行き止まりで黒くて重い扉を引き開ける。その先は非常に狭く、薄暗い空間だった。正面の壁の足元部分が、半月型に切り取られて外からの光が射している。
クルーセスは身を屈めて、穴から様子を伺った。
書斎らしき部屋だ。目の前に可動式の柵が置かれており、右手に扉があった。左手には窓と机と書棚が並んでいる。中央にはテーブルと、幾つかの椅子が並んでいた。
そこで彼は息をのんだ。
部屋の隅に誰か立っている!
……しかし落ち着いて見直せば、それは飾られた甲冑に過ぎなかった。
動く者の姿はない。クルーセスは詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
彼は黒ずんだ煉瓦を踏み、柵を退かして丸穴を潜った。暗い赤の絨毯を踏んで振り返り、そこが暖炉であることを確認する。
窓の外は、石畳の外通路を挟んで別の建物の壁が見えるだけだ。
念のために暖炉の前の柵を元通りに戻し、唯一の扉へと向かった。
扉には鍵が掛かっていたが、内側からは簡単に開けることが出来た。薄く開いて廊下の様子を伺う。
通路には部屋の中よりも一段明るい色の赤い絨毯が敷かれており、先はT字路になっていた。別通路との交点手前に、腰の高さほどの可動式ポールが二本立てられ、間に太い金のロープが渡してある。
反対側も同じようだ。どうやらこの通路自体、普段は余り使われていないらしい。T字路の向こう側を、時折人が横切っていたが、ロープのせいか通路に入ってくる者はいない。
クルーセスは通り抜けられる最低限だけ扉を開いて、右手の柱の陰に身を潜めた。
(よし)
彼は前後の人の気配を見計らい、柱の陰から柱の陰へと素早く移動し、ロープを越えた。
T字路の右手に、外に出る扉があることを期待したが、通路は先で折れているだけだ。
彼は少し落胆した。
外に出られる、できれば余り目立たぬ扉を探さなくてはならない。
人の多い大広間を避けつつ、目についた扉を一つずつ覗き込んでいく。そのうち、暗い通路の先に大きめの扉を見つけた。開いてみると建物の外だ。扉の左右には見張りの兵士が立っていた。彼らは突然開いた扉に驚いたが、クルーセスが帝国式の敬礼をすると、胸の徽章を見て敬礼を返してきた。
今のクルーセスは、伝令兵の姿だ。扉を抜けて中庭に出ても、何も言われなかった。
中庭から城壁を見上げて、漸く現在地を把握することができた。正門のある南に向き直り、小走りになる。
中庭の周囲には、穀倉や井戸、巡回の兵士や使用人らしき姿がパラパラと見られた。
伝令兵姿のクルーセスがきょろきょろしても、足早に走り抜けても、誰何してくる者はいない。
――そのはずだった。




